津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

   諱

2009-11-25 13:23:36 | 歴史
 お尋ねがあったので細川家歴代当主の「諱」について記す。

   1、藤孝   足利将軍義藤(義輝)より 天文15年12月

   2、忠興   織田信長嫡子信忠 より 天正6年

   3、忠辰 → (忠利) 徳川二代将軍秀忠 より 慶長5年(15歳)

   4、光利 → (光尚) 徳川三代将軍家光 より 寛永12年(16歳)  

   5、綱利   徳川四代将軍家綱 より  承應2年12月(11歳)

   6、宣紀   徳川六代将軍家宣 より  宝永6年(33歳)
    養子(新田藩利重二男利武)

   7、宗孝   徳川八代将軍吉宗 より  享保17年(14歳)

   8、重賢   徳川九代将軍家重 より  延享4年(32歳)

   9、治年   徳川十代将軍家治 より  安永3年(16歳)

   10、齊茲   徳川十一代将軍家齊 より  天明7年(29歳)
    養子(宇土細川藩7代当主・和泉守立禮)

   11、齊樹         同上        享和2年(14歳)

   12、齊護         同上        文政9年(23歳)
    養子(宇土細川家9代当主・中務少輔立政)

   13、(護順)→慶順→(韶邦) 徳川十二代将軍家慶 より 嘉永2年(15歳)   

   14、護久    以降「護」の字をもって通字としたと思われる。 
   15、護成
   16、護立
   17、護貞
   18、護煕
   19、護光  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井戸(井門)亀右衛門

2009-11-25 08:30:16 | 歴史
  「古武士の面影」から・・  井戸亀右衛門

小野木縫殿助、江見源左兵衛共に丹波の郡主なり。年々互に地を争ひて相戦ふ。
江見が勢次第に迫り、僅かに孤城を守る。小野木之を囲み攻むる急なり。而して
小野木は又「誰か進んで江見が首を獲るぞ」と将士を励ます。井戸亀右衛門時に
二十七才、傍にありけるが進んで曰く「賎臣必らず江見が首を得ん」と。
其兄軍評議して席にあり。之を聞き「汝假令心に思ひ設くるも、場合悪くは手に廻
らぬものなり。若輩の致す所、且無禮の至りなり。疾く御前を退け」と荒かに怒る。
亀右衛門自若として答て曰く「賎臣が申す所、全く浮気にはあらず、毎に相撲を取
るには、世は廣ければ他国は知らず、丹波一州にあっては我片手に足る者も候は
ず。地に走るに駆足さらに我に似たる者も候はず。剣術に於ても皆怯るゝに足らず
候。賎臣未だ勝負の理虚實の形の如き辨はず候へば、何ぞ他に譲り候はんや。
即ち江見が首を取らん者は、賎臣を惜いて又誰か能し候ふべき」廣言彌々高し。
小野木曰く「兄が戒め元より弟を愛する心に出でたるもの、所謂遠慮あり。さりなが
ら彼が面相必ず仕遂げ得ん、必ず仕損ずまじきぞ」と先ず一理を付す。其夜亀右衛
門獨身敵の城中に忍び入り、縁の下に伏し江見を狙ふ。暁方に至り、江見未だ鎧
せず、小具足ばかりにて縁に出でたるを、折節四方に人は無し、亀右衛門走り出て
犇と捉へ、江見と引組むで揉合ひ、遂に其首を掻落しぬ。亀右衛門軈て大音揚げ、
「江戸(ママ)亀右衛門只今江見源三兵衛を打取つたり」と呼はれば、城兵敵を拒まん
とするに圖方を失ひ、戦ひに及ばずして逃げ散りければ、即ち江見か首一つにて城
は容易に陥りぬ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   幽齋の田邊城籠城にあたり、亀右衛門は小野木勢の中に在っての見事な働
   きぶりが認められ、のち細川氏に請われて召し出された。

    井門亀右衛門  
      千石 「藤」御鉄炮五拾挺頭  (於豊前小倉御侍帳)
      千石    御鉄炮頭衆 (御入国宿割帳)

   忠興の側近として八代に在った井門氏は、忠興死後宇土支藩立藩にあたり
   家老職として宇土へ赴いた。


 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする