津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

北関始末實記・・その8

2009-11-17 14:07:26 | 歴史
 此時惣庄屋山鹿安右衛門并に勘右衛門か元知行和仁十町板楠
 村之百姓共頭立候者共は皆代償を指し其外之者共ハ脇さし斗に
 鑓・鉈・長刀等を持て両家の百姓百余人弁當なか者に土烟を踏
 立おびただしく見へてかけくる十左衛門立上り對面して/いつ連もこれ
 まて参り候事神妙なり心さしの段ハ満足仕極せり勘右衛門我等
 存寄有之故場所へ参り候事ハ堅く無用也萬々おして参るもの
 あら者此事済て後指通すまし若我等討れたり共草の陰
 よ里恨みたゝるへし其子細ハ藤田こときの小敵に十左衛門助太
 刀するてさへ少しおとなけ那し其上ニ知行之百姓迄かり催し
 参り候と阿れ者討勝ても此方のにけになる若真実之心入
 なら者遠方より後巻して有ならは重畳神妙におもふ
 へし若又我等共討負たら者勘右衛門と我等か死骸を取帰り
 高橋村ニ堀埋むへし/と高らかに被申けれ者百姓共平伏して
 畏る惣庄屋山鹿安右衛門ハ其辺二ハ近付かて少し間を置扣へて

 居けるに十左衛門使を遣し/只今百姓共へ申渡候段被聞候にて可有
 之候其方者役儀たけに百姓共召連帰りて給はるへし/と有
 けれハ安右衛門/得其意存候御後詰を仕自然之事も候ハゝ敵を
 御手ニハ餘し申間敷/と申引帰と見へしか北ノ関の上の山へ廻り
 松の木の志けりたる中に伏し隠れ様子を見居たり十左衛門ハ
 夫より日遅に成てハいかゝ也急けや者どもとて馳て行吉田又兵衛に
 十左衛門申申けるハ/又兵衛ハ古右馬助殿へ供仕有馬陣ニも参り血
 くさき目に逢て男役は相済たり其上老人なれ者場所へ
 参候事無用なり/と申付る又兵衛申候ハ/これハ御意とも不被存候
 血くさき目ニ逢男役を勤候事一代ニ何か度とかきりたる儀
 とハ不承及候必一度に限りたるにてハ有御座間敷逢おう老且又老人
 とて主君の御大切の場所ニ不罷出と申儀武門ニ者曽而有
 間敷事ニ候只今の御意ハ乍恐奉違背候/とてすゝミゆき

 扨其外のもの共ニ/もはや場所近つきたり是より帰りたくお
 もふものハ罷帰へしかつて申分なし/と下知すれ共誰有て
 請をするものなし各/\口/\ニ/主君の仰に請返事を申事も
 阿里又申さ奴事も有ものハ今の御意ニ者御請ハ申さぬ事そ/と
 口々に申てすゝみ行十左衛門ハ馬を早めて/北の関ハいつくなるそ
 もはや近付たるらん文右衛門/\とよひたれとも文右衛門ハ不達者
 にてはるかにおくれけるか走り付て/北ノ関はまだ程遠く候/
 と申其外さきに方々のけんふつのものにてあらんと見へて段々
 畑之上に大勢見へたりしか者いつ連も者や北の関ハ近くな
 里たると覚ゆるそ文右衛門と呼けれとも文右衛門又々おくれ
 て追つかす十左衛門のいわく/文右衛門居すんば源七北ノ関江打向て
 勘右衛門是まて来り候と申せ/と下知す源七畏て先に走り
 奴けてすゝみ行跡より一ノ宮弥助も差添る源七ハ道のほとり

 に粟の草とつて居る農人ともに立向ひ/北ノ関ハとこの程/とそ尋
 けるに農人共申ハ/北ノ関ハまだ間御座候/と申源七又云ク/あ連に
 菅笠着たるものあまた見ゆるハ何ものそ/と尋ぬる農人とも
 いわく/あれ者見ぶつに出たる此近所のもの共にて候/と申源七
 /それハ何の見物そ/と尋るに農人とも申候ハ/其元様ハ未タ
 御聞不被成や今日肥後之御侍衆此辺にて討果たされ候よしの
 筈其見物に出しものにて候/と申源七ハ弥七に向ひ/いつ連場所ハ
 近くなりたる見へ申候貴殿は是より帰りて可申上ハ最早北ノ関も
 近く成たると見へ申候静かに御出被成候へと可申上/と云含む弥助
 申候ハ/夫ハ何之為候事そ貴殿と拙者両人ニ比申付たるハ御使我等
 道より帰り貴殿壱人可遣道理なし/と申源七申候ハ/平ニ御帰候へあれ
 へ者壱人参ても弐人参ても同事也弐人参ても其場にてハ返し
 申間敷候定而討と免可申候両人共に彼地にて犬死しても口惜く

 貴殿ハ帰り候て追付打合の御供せられ可然候弐任なから只今討
 連てハ殿の大損なり/と申弥助申候ハ/申分も有之候得共貴殿拙者
 是にて申あいたるにてハ埒明す所詮主君之損得之勘弁する
 場所なりさあら者貴殿斗り被参候へ拙者罷帰り■而御用に
 立可申候/と立帰る
                       只今進捗率40数%ほどです
 
 
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細川家家臣・村上氏(景廣流)

2009-11-17 09:42:59 | 歴史
村上景廣とは、大日本近世史料--細川家史料の索引を引用すると次のように有る。
【小輔五郎、弾正、八郎左衛門。小早川隆景に仕え、父隆重の遺跡を継ぎ八千貫、備中加曽岡城主。天正四年大坂城兵粮救援の船戦に功あり、文禄二年朝鮮陣に隆景に従い戦功あり。隆景没後、慶長六年忠興に招かれて仕え、一万石。寛永四年十月朔日没。年七三】
       ja.wikipedia.org/wiki/村上景広
       http://proto.harisen.jp/hito1/murakami-kagehiro.htm
       http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mura_kai.html

 息・景則は父・景廣死去後もその遺領壱万石を相続した。八代に在る細川三齋の家老職的存在であった。三齋の死去後は遺言の実行に奔走したが、藩庁との軋轢が生じ後離国している。(再三ご紹介している庄林隼人も行動を共にした)

 最近まで気が付かないでいたが、同じく景廣を祖とする村上氏が存在していることを知った。村上孫四郎家である。三代目・村上吉之允は、天草嶋原乱当時は光尚の側に在って「美麗の若武者」と称えられたが、負傷して後亡くなり、其の死を惜しまれた。

 細川家家臣の家紋帳を見ると、「丸に上紋」の村上氏が他にも三家ほどある。村上水軍の血をひく一族であろうか。夫々の先祖附を精査しなければならない。
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