津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家と近衛家

2009-11-20 18:04:34 | 徒然
 近衛忠氏が赤十字連盟の会長になられることが報じられている。細川護煕氏の実弟であり、(三笠宮)靖子様のご夫君である。ご兄弟のお母様・細川護貞氏夫人温子様が近衛文麿公のお嬢さんだから、お二人は近衛公の外孫という事になる。

 細川家と近衛家の関係は、宇土細川家が大きく係わっている。宇土細川家12代行眞の子・高範が佐伯三万石毛利家に養子として入った。その娘千代子様・泰子様ご姉妹が、近衛家の文麿公・秀麿公ご兄弟に嫁がれている。細川宗家自体が10代齊茲公以来、宇土家の血が強く入り込んでいる。
遡ると細川家14代護久の弟・承昭が養子に入って藩主となった津軽家も、近衛家とは深い係わりがあるという。

 ご活躍をお祈りしたい。
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北関始末實記・・その13

2009-11-20 14:46:15 | 歴史
   決闘の跡・・

一、南條左近元知に前かとつかへたりし外科 姓名不分明 此近在ニ浪
   人にて居たりしか此事を聞付馳来り/今日之儀
   遅く承り付只今参着残念至極に存候先以無残所御利運

   に成り候て目出度奉存候先々御上下共に薬御用被成候様に奉
   存候/由にて気遣疵薬を用ひ申し候
一、十左衛門下知せられけるハ/両家の手負とも之内快気仕かたき
   者をハ外科見分いたし留メをさし一戸頃に引のけ置へし/と
   有け連者五十里喜兵衛走り廻りて見れハ西郷祐道ハいまた
   息きれす正気少し有とハ見へけれ共大疵ニ手中々快気する手
   を無と外科申けれハ留メさゝんと立よりけ連者祐道喜兵衛か
   刀を抜て来るを見て/其方ハ見方ニ而はなきか/と云へハ/是者
   五十里喜兵衛にて候旦那より被仰手疵快気有ましき衆にハ
   留メをさし申事にて候/と申祐道申けるに/旦那は御手をも不被負
   候哉十左衛門様も御手も不被負候哉/と云喜兵衛申候ハ/勘右衛門様
   御手も負不被成十左衛門殿ハ薄手ハ負被成候得とも無御別条御
   働被成候藤田父子を御自身に御討留被成家頼共残らず討取

   申候と云けれハ祐道目を見開き/それハ目出度し/と云終て容
   悪しく成息も荒しく成候故即留メを刺し十左衛門へ此段を喜兵衛
   申候得者十左衛門の云く/喜兵衛取込て喜かつかさりしハ祐道夫
   ほとに少正気も有なら者嫡子平十郎をいかゝしけるそとさそ
   おもひつらんに御子息平十郎殿も手を被負候得共薄手にて能働き
   申候と申聞悦者せ申へかりしものを残念至極と被申候此時南ノ関
   よりあんだ五丁来りけるに手負共を乗せて先へ遣申候瀬戸源七
   田代左五兵衛ハ以の外之深手にてあんだにもかきのせ申候事難成様子
   ゆへ北ノ関近所柳川御領之喜原村に漸々畳を取寄乗せ候て
   差遣し外科を附置養生仕候て翌日は気力も能候故両人ともに
   南ノ関へ引取申候其翌廿五日に熊本江着申し候
一、右之通にて何も打立南ノ関へ引取んと仕候処に柳川御城下より
   足軽大将弐人ニ足軽弐拾人宛召連れ来り/相應之用叓承り候様

   に何も先此方領内に引取可有休足候へと申段惣老様にと立花飛騨守
   被申付差越被申候由申候/十左衛門勘右衛門立向ひ一々忝仕合ニ奉存候
   何そ差支申儀無御座直ニ帰国仕候/段を申柳川衆ハ返し申候
   此節藤田か中間弐人かけ来り/旦那之死場ハとこのほとそ/と
   よ者ハり廻り申候を十左衛門聞て/下々なれともうゐやつ共なり
   もはや討取るに不及取巻生捕にせよとの下知にて早速弐人共
   生捕申候是まて今日の討相一巻相済に成候手勘右衛門を先に立
   惣人数の跡押へして十左衛門ハ馬上にて南ノ席に引取候処馬上ニ而
   十左衛門足の疵より大分血を引申候に付おり立候而三尺手拭にて
   疵をゆわえ夫よりハ歩行にて鑓を杖につき候て閑に別条なく引
   取被申候道中にて被申候ハ/いつ連も我らか鑓を杖につき候儀
   疵痛候而の事と見苦敷存候者も可有候乍去ケ様に用心之
   節ハ鑓を者かい込てハもたぬ子細有依之たてゝ持也/とそ被申ける

一、藤田父子か首を者俵に入先にもたせ候且又生捕之者ハ壱人ハ
   今昼宿之待ちに人馬之儀申遣候使之小者壱人ハ北ノ関にて夕飯
   認ニ遣候者共也後ニ熊本にて御吟味之上にて壱年奉公人殊ニ
   御国者故御免にて在所へ御返し被成候
一、藤田父子并若黨五人鑓持弐人中間三人都合拾弐人なり
   内若黨壱人小者三人ハ落失上下九人ハ討取ける
一、勘右衛門家頼討死手負
   討死 鉄炮手・家司 西郷理右衛門入道祐道  討死 鉄炮手・祐道壻 元田伊左衛門 浪人・酒屋
   討死 鉄炮手・太刀疵数ケ所 一宮弥助
   手負 鉄炮手・祐道子 西郷平十郎  手負太刀疵 瀬戸源七
一、十左衛門家頼討死手負
   討死 鉄炮手 加々見権平  手負 鉄炮手 重光小右衛門
   手負 太刀疵 衣笠新兵衛  手負 太刀疵 田代佐五兵衛
  手負 太刀疵 遠藤傳兵衛  手負 太刀疵 五十里喜兵衛
  手負 太刀疵 吉井善兵衛  手負 鉄炮 鑓持・弥右衛門
一、廿三日之戌ノ中刻彼地惣仕廻仕南ノ関へ引取候処に南ノ関ノ方より
   人数大勢明松夥敷見へて馳来る定て是ハ藤田か相聟沢与兵衛
   加勢に馳付来りし成へしと各用心して足場よき所に相待候
   處敵にハ阿らて山名・前川之一族週此殊を聞付て各馳来るにて
   そ有ける中にも朽木与次兵衛と山名四郎兵衛ハ子細有て十左衛門と近年
   義絶にて有けるなり日比の子細を捨て真先に馳来る長岡佐渡
   よりも山本源左衛門を頭として侍足軽大勢差越也其夜廿三日之夕ハ
   南ノ関に一宿して一族中并山本源左衛門用心堅固に張盤し夜を明す
   翌廿四日之朝長丘佐渡方より使者明石五右衛門南ノ関に着手負候
   者共汗替之為として帷子弐ツ宛被贈之候

                   一件落着の気配ですが・・さて? 進捗率70%を越えました。

 
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北関始末實記・・その12

2009-11-20 08:24:22 | 歴史
 決闘の悲惨な有様に眉をひそめたくなります。しばらく我慢を・・・

 藤田か家司は歳ノ程四十斗にて大兵也しかあれ
 これに渡り合散々に戦ひ薄手少し負けるか主人父子か討れ
 たるを見て跡の妻子かた付んとやら思ひけん小川の端より
 田の中を横に北の関村へ走り行を瀬戸源七追かけて/きた
 なき男の仕形哉主乃討るゝを見捨てどこへ逃て行ぞ
 に具とも逃さぬそとのゝしりて追つてくるを此間立帰り/士の
 討果ぬ下々末々の様に雑言ハ何事そいさ勝負せん/と三尺
 と見はたる刀にて源七と人ませもせす戦ひかるに、源七か刀ハ
 
 徒者本(ツバモト)より打折飛ひらき弐尺壱寸の大脇差を抜合せて
 戦ふ相手の男手きゝにて電光の如くに切廻源七ニケ所に
 手負其所者田之中にて稲も穂に出る前ニ而腰だけ斗
 に有之ゆへ互に心まゝに戦れすされ共いかゝしたりけん源七
 の耳のはつれよりくひ半分に被切候を源七相討にあいての首
 中に打落す源七も深手にて首左へ落さかるをひだりの手にて
 押上て相手に留めをさゝんとはしけれとも深手故眼くらみ
 手すくみけれ者少心を取直さんと田のあせに俵なとなる
 石の有けるに腰をかけて気を鎮め大脇差を見れハ少し
 のりたると見へ其上血も多く付たる髪毛多く付て見え
 けるを漸く膝に當て押奴具ひけ連とも血も髪けも落ちす
 源七少し心地取直し/誰にても頼申頼切候たる刀ハ打折脇差
 ものり申候そこらに藤田父子が死骸有へし其刀を取てくれ

 られ候へと云朋輩共助之進か刀を取て渡すを取てさし気を
 繕ひて腰かけたり同勘右衛門家頼筑波小助は武蔵流之剣術
 きわめ居たりけるか此間大勢と切合藤田か家頼弐人を
 打取り自分ハ薄手も負す相働く右田通にて相手上下共
 討果し各畑の岸に腰かけて休息しいたる時ハ廿三日酉ノ上刻
 なり
十左衛門被居候前一段下之畑中に切伏られて居る藤田か
 家頼を文右衛門走り寄胴を切落すを十左衛門見て/それは
 誰そためし物にてハなきそ死たるものを理不盡にむさと
 切るな/と下知す文右衛門承り/是ハいまた死きれす居申候間切り
 申候/由申候
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