津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

おゝ笑い

2009-11-30 18:52:52 | 書籍・読書
 森鴎外の「都甲太兵衛」を読みたいと思って、「青空文庫」を検索・・・?ない。
ならばと直接検索すると・・なんと・・
「都甲太兵衛」は私のサイトのなかにあった。(津々堂電子図書館)

メタボなお腹が上下するほど笑ってしまった。67爺の爺ingは相当進んでいる。
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細川齊護公「道の記」--3

2009-11-30 16:41:52 | 歴史
 十二日
 夜明て、桑名のむまやたちいでぬれば、ほとなく、日もさしいでぬ、四
 日市のむまやを過ぎて、石薬師のむまやにて、晝のかれいひつかひ
 て、庄野亀山のむまや/\もうち過ぎれば、ひもかたぶくころになり
 ぬ、猶行き/\て関のむまやちかくになりぬれば、日も暮ぬ、川水に月
 がけの清くやどれるを見て、

  すゞか川やそ瀬の波にせきとめて関のこなたにすめる月かげ

 十三日
 けふも、きのふにおなじく、そら晴れぬ、明方に関のやどり立出しに、
 ほどなく、筆捨山といふ處にきたりぬ。この山は、むかし、狩野某が
 ■にもうつしがたき風景なればとて、筆捨てたりといひ傳へたる、
 げにたゝめる巌のけしきなど、見所あり、やゝうちながめてゆくほ
 どに、坂の下むまやにきたりて、志ばしやすらひ、すゞか峠を越ゆ
 とて、

  すゞか山きり立こめてたび衣ぬれそふつゆをはらひかねつる

 ほどなく、田村川といふをわたりて、土山につきぬ、こゝにて、ひるの
 かれいひつかひて、松の尾川といふをわたれば、右のかたに布引山
 をうちながめつゝ、水口のむまやもすぎて、横田川といふをわたり
 て、日のかたぶくころ、石部のやどりにつきぬ。

 十四日
 きのふに同じく、そらはれぬ、辰の刻ばかりに、石部のむまやを立
 出て、草津に志ばしやすみて、猶行き/\て、勢田の長橋をわたる、湖
 目もはるばるに詠られければ、

  音もせでさゝなみよする鳰の海や夏をよそなる風のすゞしさ

 三上山幽に見えて、ながめはあかぬものから、あすはみやこにいづ
 れば何くれと心いそがれて、未満るころ、大津のやどりにつきぬ。

 十五日
 けふは、みやこに出なんとことのうれしければ、夜をこめて、大津のむ
 まやたちいでぬ、一里あまりゆきしに、松山につゝじの花の今を盛
 りとさきしを見て、

  来て見れば今を盛りのいはつゝじいはねど春の色ぞのこれる

 ほどなく、都にいでゝ、三條の橋をわたれば、大路をゆきかふ人之さ
 まも、ひなのなが路をすぎきぬる目には、いとめづらし、今出川の御
 館にまゐりつきぬれば、
 おほおば君の、日ごろまちたまひけむ御けしきにて、いとうる
 はしく、いろ/\のさかなどもの御まうけありて、おほみきたまは
 りける、おんいつくしみのかたじけなさに、

  けふこゝにたび路のうさも忘られて君の情をあふぐうれしさ

 けふは今宮のまつりのよし、きこえさせ給ひければ、

  めぐり来てけふいかなればいま宮の神の恵みにあへるわが身ぞ

 夜に入りぬれば、月がけのさやかにすめるを見て、東の方のいとゞ
 おもひ出られて、こゝろのうちに思ひつゞけける。

  すむかげはいずくもそらもかはらねど都の月を君に見せばや

 御物語はつきしなれと、あやにくなる夏の夜の、ほどなく亥過る
 ころにもはやなりけむ、御いとままして、御館を立出で、丑満つこ
 ろに伏見のやどりにつきぬるに、なほそら晴れて、月のさやかなれ
 ば、うちも寝られぬまゝに、

  明る夜も知らでながむる月影にふし見の里は名のみなりけり

 十六日
 ひるごろともおもふほどに、伏見のやとりを立いでゝ、ふねにのり
 て淀川をくだる、淀の水車を見て

  とことはにめぐる車はくちもせでいく代馴るらんよどの川水

 くだりゆくまゝに、日も暮むれば、今宵は枚方といふところに、ふね
 をつなぎぬ、川つらの月を見て

  見るまゝに夏をそよなる淀川やきよきながれに月をやとして
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小須賀覚書とは・・?

2009-11-30 07:38:13 | 歴史
 ガラシャ夫人の最後を記したものに「霜女覚書」の他に、「小須賀覚書」なるもの存在が知られる。
東大史料編纂所に謄写本が収蔵されている。
≪書目データ≫
    【書目ID】 00010236
    【史料種別】 謄写本
    【請求記号】 2040.5-33
    【書名】 小須賀覚書
    【著者名】
    【原蔵者】 松浦詮(長崎県北松浦郡平戸町)
    【出版事項】 北松浦郡役所託写
    【撮影・複本作成】 1887
    【形態】 3丁 (記録1点)
    【大きさ】 27cm
    【注記】 (天正15年-17年)

 私は「霜女覚書」を侍女であった霜女が書き記したのと同様、「小須賀覚書」も小須賀なる人がこの事件のみを、記し残したものかと理解していたのだが、どうも違うらしい。
というのは、いろいろ史料を見ている内に、参謀本部編の「日本戦史」(明治26~44・元真社)の中に「大木土佐清正ノ室ヲシテ難ヲ脱セシム」という項があり、その出典として「小須賀覚書」と記されているのを見つけた。東大史料編纂所の上記書目データの「注記」に(天正15年-17年)とある所からしても、どうやらこの時期の事柄の古記録を書き残したものであろうか。(但しガラシャの生害は慶長五年なのだが・・・?)

 いろいろ読んでいると、こんなおまけに出会うことがある。
肝心の大木土佐云々は、どうでも良くなってしまった。(目新しいものではなかった)
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