今日はいささか眠い。昨晩は綿考輯録の「藤孝公」と「忠興公-1」を、10時ころから数時間掛けて拾い読みをした。はっきりした記憶がないのだが、出陣の折家臣の奥方が餅を届けたことを喜んで、今後の出陣の際の嘉例にしようと言ったと云う話があった。このことを見つけようとしてのことだが、とうとう見つからずに終わってしまった。(こうなると私の記憶違いかと不安になってくる)
あと一ト月もすれば、お正月のお餅の心配をしなければ成らない。どのくらい必要か、鏡餅はどうするかといったことである。祖母が健在の時は、鏡餅の飾りつけは祖母の仕事で、差渡しが1尺もあるような鏡餅が床の間を飾った。祖母が亡くなると私の仕事になったが、次第に小さくなってしまった。子供達も独立してしまうと、鏡開きのお汁粉を戴くことも無くなってしまった。
細川家では文政のころから、武功のあった家に鏡餅を与える「鏡餅拝領」という儀式が行われた。家記には齊樹公の項に「(文政二年)癸未正月十一日先祖武功ノ者ノ者ノ子孫ヲ広間ニ呼出シ、具足鏡餅ヲ領チ与ウ、コレヨリ年々定例トナリ、一部ヲ是日、一部ヲ十三日ニ別ツ」とある。芦屋にお住まいのT家は田邊城籠城衆のお宅だが、こちらに残る史料では齊茲公の名前があるという。発案者は齊茲公、実施に移されたのが齊樹公か・・?。
武士の家において鏡開きは「具足開き」といっていたらしく、具足飾りに添えられた鏡餅を開くというものらしい。そういう意味で、武功の家にとっては名誉ある儀式として「鏡餅拝領」が行われたのであろう。嘉永六年の佐田右平日記では一月十一日の項に「武功之子孫御鏡餅頂戴例之通各出仕候事」とある。同じく十三日にも行われている。
出陣に際して御前に餅を届けた女性がどなただったか、気になって仕方がないでいる。
あと一ト月もすれば、お正月のお餅の心配をしなければ成らない。どのくらい必要か、鏡餅はどうするかといったことである。祖母が健在の時は、鏡餅の飾りつけは祖母の仕事で、差渡しが1尺もあるような鏡餅が床の間を飾った。祖母が亡くなると私の仕事になったが、次第に小さくなってしまった。子供達も独立してしまうと、鏡開きのお汁粉を戴くことも無くなってしまった。
細川家では文政のころから、武功のあった家に鏡餅を与える「鏡餅拝領」という儀式が行われた。家記には齊樹公の項に「(文政二年)癸未正月十一日先祖武功ノ者ノ者ノ子孫ヲ広間ニ呼出シ、具足鏡餅ヲ領チ与ウ、コレヨリ年々定例トナリ、一部ヲ是日、一部ヲ十三日ニ別ツ」とある。芦屋にお住まいのT家は田邊城籠城衆のお宅だが、こちらに残る史料では齊茲公の名前があるという。発案者は齊茲公、実施に移されたのが齊樹公か・・?。
武士の家において鏡開きは「具足開き」といっていたらしく、具足飾りに添えられた鏡餅を開くというものらしい。そういう意味で、武功の家にとっては名誉ある儀式として「鏡餅拝領」が行われたのであろう。嘉永六年の佐田右平日記では一月十一日の項に「武功之子孫御鏡餅頂戴例之通各出仕候事」とある。同じく十三日にも行われている。
出陣に際して御前に餅を届けた女性がどなただったか、気になって仕方がないでいる。