津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

鏡餅

2009-11-07 12:44:11 | 歴史
 今日はいささか眠い。昨晩は綿考輯録の「藤孝公」と「忠興公-1」を、10時ころから数時間掛けて拾い読みをした。はっきりした記憶がないのだが、出陣の折家臣の奥方が餅を届けたことを喜んで、今後の出陣の際の嘉例にしようと言ったと云う話があった。このことを見つけようとしてのことだが、とうとう見つからずに終わってしまった。(こうなると私の記憶違いかと不安になってくる)

 あと一ト月もすれば、お正月のお餅の心配をしなければ成らない。どのくらい必要か、鏡餅はどうするかといったことである。祖母が健在の時は、鏡餅の飾りつけは祖母の仕事で、差渡しが1尺もあるような鏡餅が床の間を飾った。祖母が亡くなると私の仕事になったが、次第に小さくなってしまった。子供達も独立してしまうと、鏡開きのお汁粉を戴くことも無くなってしまった。

 細川家では文政のころから、武功のあった家に鏡餅を与える「鏡餅拝領」という儀式が行われた。家記には齊樹公の項に「(文政二年)癸未正月十一日先祖武功ノ者ノ者ノ子孫ヲ広間ニ呼出シ、具足鏡餅ヲ領チ与ウ、コレヨリ年々定例トナリ、一部ヲ是日、一部ヲ十三日ニ別ツ」とある。芦屋にお住まいのT家は田邊城籠城衆のお宅だが、こちらに残る史料では齊茲公の名前があるという。発案者は齊茲公、実施に移されたのが齊樹公か・・?。

 武士の家において鏡開きは「具足開き」といっていたらしく、具足飾りに添えられた鏡餅を開くというものらしい。そういう意味で、武功の家にとっては名誉ある儀式として「鏡餅拝領」が行われたのであろう。嘉永六年の佐田右平日記では一月十一日の項に「武功之子孫御鏡餅頂戴例之通各出仕候事」とある。同じく十三日にも行われている。

 出陣に際して御前に餅を届けた女性がどなただったか、気になって仕方がないでいる。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「今日の発見」のその後

2009-11-07 09:09:21 | 歴史
11/5のブログ「今日の発見」で書いた、小畠氏・山田氏・曽我氏についての報告。
夫々の先祖附により以下のように判明した。

■小畠氏
   家祖には小畠越前守とあり、その息は船井少将とある。小畠越前守とは丹波の
   宍人城 (ししうど城 船井郡園部町宍人 )を築城したとされる人であると思われる。


  小畠越前守成忠は丹波國船井郡の城主、嫡子は船井少将は「足利義昭公之御供仕
  備後国江罷越彼地病死」、四代孫了達は松平阿波守に仕え隠居、舞を通じて真源院
  (光尚)の知遇を得、初代傳九郎が召出された。

■山田氏(少九郎家)
   山田家家祖は浦野四郎重遠とあり、次代に太郎重直とある。
   姓氏類別大観【清和源氏満政流】によると、太郎重直以降山田氏を名乗ったことが判る。


  「鎮守府将軍源満政六世孫浦野四郎重遠始而尾張國浦野ニ居住氏子孫を尾張源氏と
  申候 重遠子山田太郎重直山田氏元祖ニ而御座候」 初代嘉左衛門が三齋より豊前に
  召寄せられ、知行三百五十石・鉄炮五十挺の添頭を勤めた。
 
■曽我氏                      
   忠興・忠利代細川家と大変仲がよかった、曽我古祐(大阪奉行)の一族だと思われる。
   家紋も「丸に竪二つ引両紋」で一緒である。 
 

  初代の曽祖父は越前・大野宰相(織田信長二男信雄の長男・秀雄)に仕えた。
  秀雄亡き後は常信(織田信雄)の許に在ったが、信雄逝去後剃髪して宗茂と名乗り、
  曽我丹波守(古祐)から「少扶持を申請」、京都で病死した。
        ja.wikipedia.org/wiki/織田信雄
        ja.wikipedia.org/wiki/織田秀雄  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする