津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

今日の発見

2009-11-05 16:43:46 | 歴史
 侍帳を詳細にチェックしている。今日の成果は小畠氏・山田氏・曽我氏の三家である。

■小畠氏 
   家祖には小畠越前守とあり、その息は船井少将とある。小畠越前守とは丹波の
   宍人城 (ししうど城 船井郡園部町宍人 )を築城したとされる人であると思われる。

■山田氏 
   山田家家祖は浦野四郎重遠とあり、次代に太郎重直とある。
   姓氏類別大観【清和源氏満政流】によると、太郎重直以降山田氏を名乗ったことが判る。
 
■曽我氏                       
   忠興・忠利代細川家と大変仲がよかった、曽我古祐(大阪奉行)の一族だと思われる。
   家紋も「丸に竪二つ引両紋」で一緒である。 


  先祖附を取り寄せて詳細に検討し、後日ご報告する。
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最近の「日本歴史」

2009-11-05 12:51:04 | 書籍・読書
 吉川弘文館発行の「日本歴史」の直近の三号に熊本に関する記事が見える。

11月号【論 文】
     近世中後期熊本藩領における「殿様祭」と地域社会 …今村 直樹  

10月号【史料散歩】
     肥後熊本藩主細川家と「細川家文書」 …岡田 謙一

 9月号【文化財レポート】
     史跡池辺寺跡の調査とその保存・活用 …網田 龍生
                                  (敬称略)
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喜連川金王丸

2009-11-05 11:27:29 | 歴史
 嘉永六年の佐田右平の日記を読むと、その冒頭部分に藩主一家の一覧が出てくる。その中に「金王丸様 十二(歳) 喜連川」の記載がある。
細川斉護の末子良之助のことである。天保十三年(1842)熊本花畑邸で生まれ、嘉永三年(1850)喜連川家の養子(8歳)となった。喜連川家は足利家の末裔、家禄5,000石の家だが家格10万石で遇された。金王丸は16歳になって喜連川家を出奔している。両家で話し合いがもたれ正式に離縁した。安政五年(1858)のことである。細川家に復縁し、護美となのり細川家の開明派の一人として藩主を支えた。京都では「肥後の牛若丸」と称えられた。
        ja.wikipedia.org/wiki/長岡護美
        ja.wikipedia.org/wiki/喜連川氏

 先のブログでジオパークのことを書いたが、護美公は日本地学協会の設立に尽力されていたことを知った。

 喜連川家の跡は、宇土細川家の七代藩主(立礼-宗家を継いで斉茲)の弟孝応の孫・孝常が養子となり十一代宜氏となった。

 我が曽祖父も一時期良之助に仕え、京都へ上がったりしている。維新後護美公からお声が掛かったらしいが、岳父・上田休兵衛の許を離れず休兵衛の死後も熊本を離れることはなかった。
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