右之通ニ而藤田在所相知レたるニ依而
則書状相認源七を使として栃木へ差立九月廿三日之亥刻也/源七書状を
請取直ニ打立んとせしか西郷祐道ニ向て拙者門出に御酒被仰付候へ
と申祐道聞て/扨々是ハ我等気かつかさりし/とて早々申付酒を
出しけれ者源七一盞飲て云/栃木ヘハ拙者いまた罷越たる事無之候方角も
不案内也殊更大事之御役なれ者彼地手始に拙者取廻し討取可申も難
計候又ハ返書遣候間相待候様ニと留置其相待申候内二裏道などより直に
奴け帰り此御屋敷へ不意に押懸ケ可申も知レ不申候申二ハ不及候得共随分
可有御用心候拙者罷帰り一左右を御待被成候なとゝてうか/\と被成候ハゝ
御油断之第一たるへく候扨右之趣ニ候へハ武士は誰連もとハ乍申別而拙者
身ハ那きものと覚悟をいたし罷立候得共今生の御暇乞ニも成へし
又二心臆病有間敷た免各に向ひ御約束之印に拙者儀ハ右御存知之
通り常二ハ酒を好ミ不申候得共爰はひとつ請候て誓約仕候/とて小刀を
ぬき指をさし候て/血を志たてゝかんなへに入レて飲けれ者祐道を初め其
一座之者共是ハ尤至極也とて何連も血を出しかんなへに入レ各一ツ宛呑て
歯かミをなし互に目と目を見合ける有様いか様の用に立ぬへき
剛の者共とそ見へにける此時神水(クワミズ)一座の者共ハ先西郷入道祐道同嫡子
西郷平十郎・一宮弥助・瀬戸源七・酒屋猪(伊)右衛門以上五人之者共其翌年
七月廿三日北之関にて討果し時祐道・伊左(右カ)衛門ハ一番ニ真先二矢面に立忠
義なる討死し西郷平十郎ハ父をかけぬけ討てかゝりたるに鉄炮手之
深手なれとも少シもひるます相働一ノ宮弥助ハ討相の時是又手柄な
る討死し無比類切相て敵数多討取深手を負け連とも一足も引
不退働きけるとそゆゝしけれ酒屋伊左衛門ハ古町米屋町之清
酒屋也しか父ハ元田伊右衛門とて當国之先主加藤主計頭殿に仕へて
所々にて武勇有ける者なり禄弐百石にて先手組の内也加藤家没
落之節所労して他国へ引取仕官も成かたく當地京町ニ蟄居して
無程病死す其子酒屋伊左衛門也常々勘右衛門要用を申付勘右衛門目を
懸け常々出入しけるか心さまかひ/\敷男らしき者にて祐道別而懇意
して娘を以妻合て弥懇に有けるか今度是非/\平世報恩之御供
仕らんと達て望けれども勘右衛門しきりにとどめ/町人まてもかりもよふし
召連たりとあれ者打死しても死後のかばね乃上の恥也/と達てとゝめ
けるゆへさあらハ御供ハ仕間敷候とて勘右衛門より先へかけぬけて南ノ関辺
に待合て供したりけるか勘右衛門か矢面ニ立古今稀成る口上をよばわつ
て討死したりけり
一 今度勘右衛門より藤田へ遣候書状紙面左之通
態々以飛札令啓候、然者縁組之儀ニ付我等不定もの由夫故其方より
縁組を切遣候勘右衛門儀何之役ニも立申奴ニ而無之なとゝ方々ニ而士ニ似合
さる雑言悪口有之候段承届候其上ハ兎角を申ニ不及討果し可申候間其
心得可有之候其方事入湯之由ニ而湯之本へ我等罷越候而存分可仕候
得共遠路故其儀無之候急度御帰り可有候明日ハ
天下の御精進日ニ候へハ乍此上公義を奉敬明後廿日朝日之出
ニ川向井手口へ出候而相待可申候為に申入如此ニ候御報ニ様子御申越
可有候間候恐惶謹言
九月廿三日 前川勘右衛門重之・判
藤田助之進殿
右之通書状相認瀬戸源七ニ相渡シ廿二日之夜亥ノ上刻月之出に熊本
發足し廿三日未ノ上刻ニ湯之本ニ着案内を乞候而取次ニ書状を相渡し
湯小屋ノ大戸之外ニ扣居る其場所殊之外狭ク足場も悪敷如何存候へ共
外に扣有へき所もなく用心して居る所に藤田か若黨立出て/御使内江
御入御急速候様/にと両度迄申けれ共源七堅ク辞退して本の所扣入
程なく返事出ス源七請取りて駆帰り其夜九ッ時に熊本へ着返書を
出す
則書状相認源七を使として栃木へ差立九月廿三日之亥刻也/源七書状を
請取直ニ打立んとせしか西郷祐道ニ向て拙者門出に御酒被仰付候へ
と申祐道聞て/扨々是ハ我等気かつかさりし/とて早々申付酒を
出しけれ者源七一盞飲て云/栃木ヘハ拙者いまた罷越たる事無之候方角も
不案内也殊更大事之御役なれ者彼地手始に拙者取廻し討取可申も難
計候又ハ返書遣候間相待候様ニと留置其相待申候内二裏道などより直に
奴け帰り此御屋敷へ不意に押懸ケ可申も知レ不申候申二ハ不及候得共随分
可有御用心候拙者罷帰り一左右を御待被成候なとゝてうか/\と被成候ハゝ
御油断之第一たるへく候扨右之趣ニ候へハ武士は誰連もとハ乍申別而拙者
身ハ那きものと覚悟をいたし罷立候得共今生の御暇乞ニも成へし
又二心臆病有間敷た免各に向ひ御約束之印に拙者儀ハ右御存知之
通り常二ハ酒を好ミ不申候得共爰はひとつ請候て誓約仕候/とて小刀を
ぬき指をさし候て/血を志たてゝかんなへに入レて飲けれ者祐道を初め其
一座之者共是ハ尤至極也とて何連も血を出しかんなへに入レ各一ツ宛呑て
歯かミをなし互に目と目を見合ける有様いか様の用に立ぬへき
剛の者共とそ見へにける此時神水(クワミズ)一座の者共ハ先西郷入道祐道同嫡子
西郷平十郎・一宮弥助・瀬戸源七・酒屋猪(伊)右衛門以上五人之者共其翌年
七月廿三日北之関にて討果し時祐道・伊左(右カ)衛門ハ一番ニ真先二矢面に立忠
義なる討死し西郷平十郎ハ父をかけぬけ討てかゝりたるに鉄炮手之
深手なれとも少シもひるます相働一ノ宮弥助ハ討相の時是又手柄な
る討死し無比類切相て敵数多討取深手を負け連とも一足も引
不退働きけるとそゆゝしけれ酒屋伊左衛門ハ古町米屋町之清
酒屋也しか父ハ元田伊右衛門とて當国之先主加藤主計頭殿に仕へて
所々にて武勇有ける者なり禄弐百石にて先手組の内也加藤家没
落之節所労して他国へ引取仕官も成かたく當地京町ニ蟄居して
無程病死す其子酒屋伊左衛門也常々勘右衛門要用を申付勘右衛門目を
懸け常々出入しけるか心さまかひ/\敷男らしき者にて祐道別而懇意
して娘を以妻合て弥懇に有けるか今度是非/\平世報恩之御供
仕らんと達て望けれども勘右衛門しきりにとどめ/町人まてもかりもよふし
召連たりとあれ者打死しても死後のかばね乃上の恥也/と達てとゝめ
けるゆへさあらハ御供ハ仕間敷候とて勘右衛門より先へかけぬけて南ノ関辺
に待合て供したりけるか勘右衛門か矢面ニ立古今稀成る口上をよばわつ
て討死したりけり
一 今度勘右衛門より藤田へ遣候書状紙面左之通
態々以飛札令啓候、然者縁組之儀ニ付我等不定もの由夫故其方より
縁組を切遣候勘右衛門儀何之役ニも立申奴ニ而無之なとゝ方々ニ而士ニ似合
さる雑言悪口有之候段承届候其上ハ兎角を申ニ不及討果し可申候間其
心得可有之候其方事入湯之由ニ而湯之本へ我等罷越候而存分可仕候
得共遠路故其儀無之候急度御帰り可有候明日ハ
天下の御精進日ニ候へハ乍此上公義を奉敬明後廿日朝日之出
ニ川向井手口へ出候而相待可申候為に申入如此ニ候御報ニ様子御申越
可有候間候恐惶謹言
九月廿三日 前川勘右衛門重之・判
藤田助之進殿
右之通書状相認瀬戸源七ニ相渡シ廿二日之夜亥ノ上刻月之出に熊本
發足し廿三日未ノ上刻ニ湯之本ニ着案内を乞候而取次ニ書状を相渡し
湯小屋ノ大戸之外ニ扣居る其場所殊之外狭ク足場も悪敷如何存候へ共
外に扣有へき所もなく用心して居る所に藤田か若黨立出て/御使内江
御入御急速候様/にと両度迄申けれ共源七堅ク辞退して本の所扣入
程なく返事出ス源七請取りて駆帰り其夜九ッ時に熊本へ着返書を
出す