津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川齊護公「道の記」 -- 1

2009-11-24 21:02:27 | 歴史
   明治36年、池部義象・池田末雄氏編集による細川家12代当主齊護の
   陽春集から、道の記をご紹介する。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   今年、天保三の年の卯月に、
   君より御いとまたまはりて、國へ歸り侍るとて、五月朔日といふに、
   龍の口の館を立ち出んとするをりしも、そらさへうち曇りて、人/\
   にわかれむることは、志ばしとおもへど、かなしくて

    せきあへでおつる涙をとゞめかねまだ露わけぬ袖ぞぬれける

   午のはじめごろ、門出しはべるとて、

    旅衣けふたちいづるあずま路の名残はてなきむさし野のはら 

   ほどなく、志ろかねの御館につきて、御二所の君に、御いとま申し侍
   れば、おほみき給りて、とりどり御名残は盡きせぬものから、門出の
   ならひ、こゝろいそがれて、志ろかねの御館を立いでぬ。品川のむま
   やもすぎ、大森てふ處に志ばしやすらひけるほどに、永田町より、御
   はなむけとて御便あり、いろ/\の菓子ともたまはりぬ。

    かしこしな深き恵のかゝるよりなほ露そふるたびのころもで

   このあたり、むかし荒■がさきといひけるよし聞えければ、

    志ら波のあらゐがさきを越えきつゝむかしをとへば松風の聲
  
   日もかたぶくころ、河崎のやどりにつきぬ。

    けさまでは思ふことのは川崎を旅のわかれのはじめとやせむ

   こゝまでは、志ろかね龍の口の人もまゐりつどひて賑しければ、み
   きくみかはして、ふしどに入りぬ。
   
   二日
   きのふにおなじく、そら曇りぬ。川崎のむまやを立出で、程が谷もう
   ちすぎ、境木てふ處に志ばしやすみけるに、このところは、武蔵と相
   模との境なるよし聞えければ、

    名残あれや馴し武蔵も行つくしけふ相模路へかゝると思へば

   ほどなく、戸塚のやどりにつきぬ。

   三日
   夜明けて戸塚のやど立出づるに、けふもきのふにおなじく、そら曇
   りて、小雨ふりぬ。藤澤のむまやも行きすぎて、江の島の道あり、十年
   あまりのむかし、この神やしろにまうでしこと思ひ出して

    昔我まうでしこともおもひ出ていのる心は神ぞしるらむ

   馬入川うちわたり、平塚のむまやもすぎ、花水橋といふにかいたりぬ
   るに、杜若の花の咲きしを見て、

    なほこゝに春をとゞめてかきつばた色ぞうつろふ花水のはし

   志ばし、このところにやすらひて、大磯をとほりしに、鴫立澤とて、か
   すかなる堂のうちに、西行の像を安置せり

    いまも猶むかしの跡や志のばれむ志ぎたつ澤の秋はいかにと

   酒匂川うちわたりて、申すぐるころ、小田原のやとりにつきぬ。

   四日
   けふは箱根山をこゆとて、夜をこめて小田原のむまや立出しに、す
   こし雨ふりて、明行くそらも、ほのぐらく見えぬ。

    あかつきの人の八聲の鳥ともろともにけさ立いづる小田原のやど

   夜明けて雨やみぬれど、猶曇りて晴れやらず、山路を一里ばかりのぼ
   り、湯本てふ處の前に、たにがわの音高く清く流るゝをみて、

    志らなみはせゞの岩間にくだけつゝおともすゞしき谷川のみづ

   けふは東の方も雲にへだゝりて見えず、いとゞおもひやりて、

    かへりみり武蔵の方をこゝろなく幾重はだつる雲もうらめし

   猶登りてゆくに、雲も志だいに晴れぬ、折ふし時鳥の鳴くを聞て、

    あづまより語らひきつゝ箱根山なれも旅とや鳴くほとゝぎす

   ほどなく、関にいたりぬれば

    四方の國治まる御代の志るしとて関もとざゝでけふぞ越しける

   はこねのむまやにやすむ、そこに廣橋どのゝ歌とて、主の額になし
   てかけぬるを見るに、仰山鑑水といふことを、

    山をあふぎ水をかゞみに動きなく心くもらずやどにすむらし

   となんありつる。またそのかたはらの額に、はこね一の本陣にて、父
   子相つゞき勅使にてふじをみることも、君恩かしこまりて

    君の恵あけくれあふぐ箱根山かそのとまりとおなじやどりは 
    箱根山ちゝのもとみし一の夜にふたゝびわれもめづるふじのね 

   となんある、げにこのところは、向ふにふじもみえ、前に湖水ありて、
   ながめいとよし。けさは曇りてみえず。志ばしやすらふほどに、雲も
   やゝ晴れて、冨士もすこし見えぬるに、うれしくて

    我もまた君の恵のかゝらずばけふこのやどにふじをみましや

   この山路は名たゝるけはしき道なるに、夜べの雨にて、岩かどなめ
   らかに、ひちりこふかくして、ゆきなやみぬ。日のいるころ、からうじ
   て、三島のやどりにつきぬ、このむまやは、三島の神の御社、かみさび
   ていとたふとく、かしこければ

    いのるぞよまたこむ春に立ちかへり猶もみしまの神のめぐみを

   ほとゝぎすを聞て、

    もろともに山路や越えし草枕かたらひがほに鳴くほとゝぎす 
     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下津権内高名

2009-11-24 11:28:04 | 歴史
「古武士の面影」より  下津権内助

    長岡兵部太夫藤孝丹後を領す。家来に下津権内助と云へるあり。
    元亀四年七月廿八日信長淀城を攻むるに方り、敵将岩成主税助
    大力の聞えあり、打て出づ。下津之を見て態と引受け、橋の上に
    て岩成に組むと見えしが、我より誘ふて橋より落たり。下津は河
    内の育ちにて、水練に名を得たるもの。さればこそ、水中にて岩
    成を突き放しては息を継ぎ、一刀さしては突き放ち、三刀まで刺
    して、遂に首を得浮出でヽ藤孝に見す。藤孝
      「急ぎ信長に獻ぜよ」
    とありければ、下津自ら首を提げて、江州高橋に至る。信長見て
    大いに悦び、下津の機知武勇に穪搖し、感状並びに百金を賜ふ。

     出典:「古武士の面影」 編者:有本天浪 明治四十二年 東京・文成社

                 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北関始末實記・・その18(追加-2)

2009-11-24 08:14:03 | 歴史
一、又藤田在宅在宅所近村の老人物語仕候節有成事承り及候藤田先年
  京都買物奉行にて数年在京仕候其比妻ハ嫁娶いたし候得とも
  婦女もいまた出来不仕候已前にて候藤田在京之間に妾を召抱申候
  一両年召仕候に近年の中本国へ下り候ハゝ召連可罷下候と申聞候妾
  申候ハ其段ハ忝奉存候得共老母壱人罷在候申聞せ存寄ニ而御請可申
  由にて此段老母へ申候得共母存寄御座候由にて断申候故其分にて
  罷在候処に無程母老死仕外に男女之兄弟も無之候に付此上ハ
  弥近年之内召連罷下り申筈に申付置候然處に其年の冬役替

  被仰付藤田儀被後へ罷下り候其砌右之女召連罷下り候儀藤田
  望に不存候意味有之暇を遣申候断申渡候へハ女申候ハ夫レハ御約束之
  末届不申難得其意候決て罷下り可申候よし難渋仕候に付色々
  申聞候得共合点不仕其内立前無余日成申候弥六ッヶ敷儀を申藤田
  大にもてあつかひ申候女申候ハ兼而ハいかやふ共可被召連と誓云を以て
  被仰候に只今に成り如此の御変改ハ可有事に無之候弥不被召連候ハゝ
  此元にて御所司代様へ訴出候て御捌方次第に可被仕由申候藤田存候ハ御所
  司代に御沙汰におよひ候得ハ御国之御名も出其上御所司代より御国江
  なと申来し筋ニ成り申候てハ至極不参事に候ゆへ先偽て左候はゝ
  召連可申由申聞なため置無程罷下り候節淀川下り船之船中ニ而
  寝入る所を刺殺し川へ志つめ申候船頭ニ茂過分ニ金子を遣し沙汰
  仕間敷と誓言を仕せ候に付夜中と申曽て外へ相知不申女
  一類共も無之何方より尋も無之相済申下着仕候て其翌年本妻

  の腹に婦女出生仕候此女子成長仕候に随イ右之刺殺したる女に能く
  似申候段々おひ立十六七歳とも成候得ハ弥以右之女に少しも不違候て容
  儀こわね万端少しも違不申外に相知れ可申様も無之其時節より召仕
  候家司と鑓持此両人数年相勤京都以来も勤候て當時ハ暇を申
  在所へ引込農家ニ帰り候此者共元より藤田知行所之百姓にて候故に
  今心易く出入いたし申候此者共出合候てひそかにさうにても旦那之
  御婦女は彼淀川にて刺殺されし女に少しも不違似られたる事哉と
  申けれ者一人之者我等も兼々さ様に存候人に申すへき様もなく過行候
  其方も同前に見被申候事扨々不思議なる事にて候彼女うらミ
  強く可存候間娘に成生出てくるにて可有候哉と昔話にてそかゝる
  事も有之たるに不思議至極の事此上已後旦那の御家に彼
  御息女御悪事に成事なとも出来致すならんと両人之者ひそ
  かに申けるかあんのことく此娘縁組之儀より事おこり藤田父子

  滅亡に及ひ申候ひとへに彼悪事か致所なるへしと後の世まても語
  傳ふるとなり或人の評に藤田にハ右之首尾にてうらミ祟る事も
  尤之事ケ様のことハ古今和漢とも例にも多く有事なり然るに
  又前川いえにハいかなる悪霊有と云ふ事を聞す然連ハ悪霊いかか
  にても有まし其悪霊のおこりは藤田か不行跡より事おこりそれニ
  段々枝葉つけてケ様に大きくなる事に成行両家の禍に成たる也
  然連者(シカレバ)悪霊よりも我方寸の心の中を恐連慎むへき事也と
  いふ人も有たり右此断山鹿郡藤田在宿所昔より申伝たる巷説
  なり無用の単墨をついやす事なれとも後世少しのいましめ
  の端ともなりやせんと書付置候なり

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

       大君綱利君于山名十左衛門賜書写
          今朝南関旅行北関至先年其方義藤田父子
          令誅戮無比類働申場所今見様存候其邑
          老村女マテ感心申候天下静謐ノ節家老職
          其方ヲ持申事世上無上稀有之事存候謹言
             三月六日   越中 綱利 御判
                      山名十左衛門殿


                     了

      これにて全て完了しました。お付き合いいただき有難う御座いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする