日本圖會全集(昭和3年3月発行)から、辰の口、道三橋、銭瓶橋をご紹介しよう。
■龍の口
和田倉御門の東御溝(おんほり)の餘水を落す、此所迄潮さし入あり。昔此邊(あたり)を平田村といひしと云。同所南の角松平右京兆第宅の内に平田明神の社あり。
祭る神詳ならず、今は稲荷を勧請す。又此地其昔は蒲生飛騨守氏郷の宅地なりと云傳ふ。龍の口、虎の門、梅林坂、竹橋、是を合せて営中の龍虎梅竹と穪しあへり。
■道三橋
細川侯藩邸の北の通より常盤橋の方へ渡る橋の號とす。昔此橋の南に、典薬寮の御醫官今大路家の第宅ありしとなり。
故に此所を道三河岸といふ。延寶圖に内河岸とあり、慶長の頃は柳町と云し傾城町なりしとなり。慶長十二年の圖に町屋とのみ記してあり。
俗間傳云、ある時大将軍家道三をめさる、少し遅々したりければ御咎ありし時、御堀をめぐる故に其道遠しと申上ければ、其後此橋をかけし給ふとなり。
江戸名所ばなしに、道三河岸南北ともに道三をはじめ醫術の面々、本道外科針立業まで軒をならべて住宅すと云々。寛文江戸會圖に、此はしを彦次郎橋としるしてあり。又大導寺友山翁云、道三河岸、御入國
の頃材木渡世の者軒をならべてありしが、後年彼地武家のやしきとなりける故、御城の外東の方へ移さるゝ、今の材木町是なり云々。
■銭瓶橋
常盤橋と呉服橋の間にあり。昔初て此橋を架す時、銭の入たる瓶を堀得し故號とすと。一説に、昔此所に永楽銭の引替ありし故に、銭替橋と唱へしとなり。又江戸總鹿子に云く、
昔此地にて銭を賣もの市をたて、日毎に両替せしに、後は銭賣多くなりければ、互に渡世の為にもなるまじとて仲間を定めける。依て其頃銭賣はしと云ける云々。
江戸鹿子、江戸雀等の冊子に、銭亀橋に作るはさらにより所なきに似たり。寛永十八年印本そゞろもの語といへる冊子に、天正十九年の夏、伊勢與市といへる者、銭瓶橋の邊に洗湯風呂を一ツ立る、風呂銭
は永楽一銭なりとあれば、銭瓶橋に作る事も久しとしるべし。
又、「江戸城とその付近」(昭和35年8月発行)によると、
朝々は 鴨のきている 竜の口
竜の口 昨日の雨の 息づかい などの句が残されていて、このあたりののどかな風景がしのばれると記す。
また、次のような歌もある。
あつさをも払う薬となりにけり 道三橋にかかる夕立
今は大都会の真ん中に、案内板がかろうじて道三橋の跡を示している。