津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

幽齋の軸とまくり

2012-07-01 14:55:06 | オークション

             (1) 640)◇細川幽斎 里村昌叱宛 書簡 軸装 紙本 肉筆 掛軸

             (2) 【細川幽斎/和歌/マクリ】掛軸 掛け軸 戦国武将 歌人 古文書 

いずれも幽齋公のものだとする軸装とまくりである。

(1)の里村昌叱【天文8年(1539)~慶長8年(1603)】 は連歌師で、青龍寺時代に席を同じくしての連歌の会の記録にも昌叱の名前はたびたび確認される。
   天正10年(1582)5月29日本能寺で信長が亡くなると、藤孝は隠居し幽齋と号した。この書状は幽齋とありこれ以後のものである。
   又藤孝(幽齋)に田辺城に招かれ連歌の会が催されたりしている。(天正12年8月21日)
   いまだ読み下しには至らないが、大変興味深いものである。
(2)は軸装からはずされた「まくり」のようだが、相当痛みがある。
   この歌の記録が残されているとよいのだが・・・・・

真贋のほどは・・・いつもの事ながら判らない。史料としての興味は尽きない。 

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龍の口、道三橋、銭瓶橋

2012-07-01 08:13:51 | 地図散歩

    

日本圖會全集(昭和3年3月発行)から、辰の口、道三橋、銭瓶橋をご紹介しよう。

■龍の口
 和田倉御門の東御溝(おんほり)の餘水を落す、此所迄潮さし入あり。昔此邊(あたり)を平田村といひしと云。同所南の角松平右京兆第宅の内に平田明神の社あり。
    祭る神詳ならず、今は稲荷を勧請す。又此地其昔は蒲生飛騨守氏郷の宅地なりと云傳ふ。龍の口、虎の門、梅林坂、竹橋、是を合せて営中の龍虎梅竹と穪しあへり。 

■道三橋
 細川侯藩邸の北の通より常盤橋の方へ渡る橋の號とす。昔此橋の南に、典薬寮の御醫官今大路家の第宅ありしとなり。
  故に此所を道三河岸といふ。延寶圖に内河岸とあり、慶長の頃は柳町と云し傾城町なりしとなり。慶長十二年の圖に町屋とのみ記してあり。
 俗間傳云、ある時大将軍家道三をめさる、少し遅々したりければ御咎ありし時、御堀をめぐる故に其道遠しと申上ければ、其後此橋をかけし給ふとなり。
  江戸名所ばなしに、道三河岸南北ともに道三をはじめ醫術の面々、本道外科針立業まで軒をならべて住宅すと云々。寛文江戸會圖に、此はしを彦次郎橋としるしてあり。又大導寺友山翁云、道三河岸、御入國
  の頃材木渡世の者軒をならべてあり
しが、後年彼地武家のやしきとなりける故、御城の外東の方へ移さるゝ、今の材木町是なり云々。
 
■銭瓶橋
 常盤橋と呉服橋の間にあり。昔初て此橋を架す時、銭の入たる瓶を堀得し故號とすと。一説に、昔此所に永楽銭の引替ありし故に、銭替橋と唱へしとなり。又江戸總鹿子に云く、
 昔此地にて銭を賣もの市をたて、日毎に両替せしに、後は銭賣多くなりければ、互に渡世の為にもなるまじとて仲間を定めける。依て其頃銭賣はしと云ける
云々。
  江戸鹿子、江戸雀等の冊子に、銭亀橋に作るはさらにより所なきに似たり。寛永十八年印本そゞろもの語といへる冊子に、天正十九年の夏、伊勢與市といへる者、銭瓶橋の邊に洗湯風呂を一ツ立る、風呂銭
  は永楽一銭なりとあれば、銭瓶橋に作る事も久しとしるべし。 

又、「江戸城とその付近」(昭和35年8月発行)によると、
                    朝々は 鴨のきている 竜の口
                    竜の口 昨日の雨の 息づかい  などの句が残されていて、このあたりののどかな風景がしのばれると記す。
また、次のような歌もある。
                    あつさをも払う薬となりにけり 道三橋にかかる夕立

今は大都会の真ん中に、案内板がかろうじて道三橋の跡を示している。
                           
 

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