三齋の年月未詳の次のような興味深い書状(1913)が残されている。その内容から元和八年のものであろうと推察される。
以上
文はいけんいたし候 内きかたより けんもつ事ニつきふみ候ハんと申
くはしくみ申候 むりニかゝへとハ申さす候 よそへつかはし候ハんとも
かゝへ候ハんとも まゝにて候よし 申つかハし候 何と成とも心したいと
仰遣され候へく候 かしく
より
御ち 三
御中
御返事
一見して女性に宛てた書状であることが判る。御ちとは誰か・・・御乳、すなわち忠利の乳人に宛てたものである。
この人物については綿考輯録に次のようにある。
門川備中と申者一柳監物之家中江客分ニ居申候、備中娘丹後ニおゐて忠興君
ニ被召出、光千代君(細川忠利)ニ御乳を上申候、依之其弟喜右衛門を被召出、
新知百石被為拝領候 (綿考輯録・巻二十八)
さてこの書状は、慶長十二年忠興の元を退去していた米田是季(興季)を、忠利が呼び戻すための動きの中での書状である。
退去の理由は定かではないが、妹婿・飯河肥後の誅伐事件が原因であろうという説がある。この事件そのものの原因も定かではないが、こちらは忠興の二男・興秋の出奔や豊臣方での出陣などが原因ではないかとされている。いずれにしろ、藩主に反旗をひるがして出奔するというのだから、大変剛毅な性格であったのだろう。豊臣方につき出陣したが、元和八年忠利の招きにより帰参したとされる。
何故乳人との書状のやり取りがなされたのか、忠利の意を受けてのことであろうが、どういう意味合いを持つのか大変興味深い。
ひょっとすると、忠興は忠利の考えを喜んだのかもしれないが、「どうにでもご随意に・・」とでもいうような物の云い様が面白い。
帰参その他に関わる過去のブログをご紹介しておく。
米田是季の再仕官
長岡監物 21年、沢村大学 17年