史料は良きことも悪しきことも紙面に残す。関係者には申し訳ないとも思うが、このような事の原因は何かと考えるの人情というものである。
貞享二年八月十九日、江戸にて不行跡が咎められて以下の人たちが処分を受けている。
・前川与三兵衛
・谷与三右衛門
・田中次太夫
以上江戸にて不行跡知行召上扶持方下さる
・坂井十兵衛
・続五左衛門
・門司源兵衛
以上江戸にて不行跡暇
・里杢之助
常々行跡叶わず知行召上当前扶持方
・続三四郎
常々不行跡暇
この年の六月藩主綱利は熊本に帰国している。そんな中、江戸定府のいわゆる綱利側近の人たちが大量に処分されている。
在熊の重役たちは、定府の綱利側近の振る舞いを苦々しく感じてきたが、当然のことであろうが綱利の決済の元に処分を断行している。
中には一族である前川(三淵)与三兵衛がいることは驚きである。延宝元年七月廿三日筑後北之関において、従兄弟である前川勘右衛門と藤田助之進同縫殿之進が意趣あって戦った際、三淵家当主山名十左衛門と共に助力して藤田父子を討取る働きをしている。そんな与三兵衛が扶持召し上げとなって、息助武に至り絶家している。
谷与三右衛門は三百石、この処分により拾人扶持被下置、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気被成御免候(惣左衛門ト改)
田中次(治)太夫は二百石、 六人扶持被下置、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気被成御免候
坂井十兵衛は二百石、二百石 元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気御免被召帰、六人扶持被下之
続五左衛門は二百石、御暇被遣候、断絶か
門司源兵衛は百五十石、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気御免被召帰四人扶持被下之、のち御扶持被下置衆・御奉行所触 四人扶持、息・善右衛門が跡を継ぎ明治に至った。
里杢之助(養子 甥、実・岩崎武兵衛二男・兵四郎 )は二百石、養子・政之助が妙解院五十回忌にあたり(十三歳)二百石を拝領、これは祖父・杢之助が
光尚に殉死した筋目によるものと考えられる。
続 三四郎は三百五十石、御暇被遣候、断絶か