津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

高さ「支障ない」 熊本市がNHK鉄塔容認方針

2012-07-10 13:07:55 | 熊本

 現在熊本城内千葉城にあるNHKの局舎はずいぶん古く手狭で、花畑町の建設予定の開発ビルに移転することで動き出したようだ。
その屋上に設置される鉄塔が、熊本市の景観審議会にかけられた話が、新聞に報道されている。
              http://kumanichi.com/news/local/main/20120709006.shtml

熊本市には中心部において 「建物や工作物の高さを海抜55メートル以下」とする条例がある。新聞記事にもあるように熊本城の高さが影響している。
この条例が出来た当時、馬鹿なことを考えるものだと思ったが、まさか鉄塔がひっかかるとは思わなかった。
この場所の標高は国土地理院の海抜を知るサイトによると13,6メートルとあるから、建物(工作物)の高さのMAXは41メートルほどということに成る。

政令指定都市になった熊本市のそれも中心部を限定して、こんな条例が息をしているのがおかしい。もっとも今回のように審議会のお墨付きをもらうという抜け道はあるのだが・・・・・。有識者と呼ばれる先生方の将来を見越せなかった発想が問題である。

ちなみに私が住む処が、ほぼ海抜55メートルである。熊本城の天守閣とほぼ同じ高さということになる。
(水害が怖くて逃げ回った末のことである)
 


 

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小野武次郎のミステイク

2012-07-10 11:40:26 | 徒然

 畏友K氏が一族M家の歴史をまとめて上梓するべく作業を進められている。幾度か其の原稿を拝見したが、その内容の広範にして緻密成ることに驚かされた。
近世史家S氏が史料考証をてがけられ、一段とその内容が重厚さを増している。

一族の中に河方家から養子に入られた人がある。河方氏は元・松下氏、松下民部少輔述久が豊前細川家に召出され(500石)、息・安右衛門の代に河方を名乗ったものである。。
じつはこの人物についてはたびたびこのブログで取り上げて来た。松下述久は幽齋の田邊城籠城の際、朝廷との橋渡し役を務めたことを綿考輯録は紹介している。そして小野武次郎は次のように記していた。(巻五・・出水叢書・巻一 藤孝公p213~)
                従五位下、禁裏に勤居たり、鞠歌の御伽として、幽齋君御懇に有之、内々御和睦をも取持仕候段
                は、先祖附にも代々書加来候、後に五百石にて、御家に来、其子松下掃部助事河方安右衛門と改
                曽我丹波守殿妹を忠興君御養女に被成、被嫁之、其後代々御奉公相勤・・・・                

■曾我古祐
曾我尚祐の子。喜太郎、又左衛門。慶長六年より秀忠に仕ふ。のち書院番、二百石。大坂役の後軍令違反により閉門。のち赦免。寛永三年相續(千石)。寛永八年二月十二日使番。九年四月八日目付。同年十一月廿七日布衣を許さる。十年十二月千石加増。十一年七月廿九日大坂町奉行。閏七月朔日加増してすべて三千石。十五年十二月従五位下丹波守。萬治元年三月十九日致仕、四月廿一日大坂に於て歿。年七三。

ところが近世史家K氏は、曾我丹波の妹を娶ったのは息・安右衛門ではなく述久であると「寛政重修諸家譜」に記されていると仰る。
あわてて私が書き間違えたのではないかと綿考輯録を確認、こちらは上記記述の通りである。
気になるので熊本県立図書館に出かけ、河方家の先祖附を確認すると・・・・ご指摘の通り「寛政重修諸家譜」にそった記述があった。
               
                丹後田邊御籠城之節御和睦を茂何角御取持申上候而相整申候 就夫猶以御意ニ
                而曾我丹波守殿妹を三齋様御養女被置民部少輔江嫁娶被仰付・・・・・ 

これは明らかに綿考輯録編者・小野武次郎のミステイクである。
細川家記・綿考輯録にも間違いはある。並べ立てて論じようとは思わないが、こうして真実が明らかになるのも楽しいではないか。
S氏に感謝申し上げる次第である。 

              

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熊本敵討実録写本「岩井実記」

2012-07-10 10:51:51 | オークション

★H73和本江戸寛政期熊本敵討実録写本「岩井実記」上中下1冊古書 ★H73和本江戸寛政期熊本敵討実録写本「岩井実記」上中下1冊古書

 寛永十七年十月四日西岸寺河原(白川右岸)で、岩井善次郎が父の仇森山弾正を討ち取ったとされる記録であるが、事実かどうかは確かでないとされる。(肥後文献解題)
同様の記録として「西岸寺河原仇討略記」がある。 

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「女持不申候者」顛末

2012-07-10 06:57:02 | 歴史

「女持不申候者」というリストがある。結婚適齢期の重臣の子息の名前である。

このことについて二度(1)(2)において記したところだが、どうやら私は見当違いのコメントをしていたようだ。
大日本近世史料・細川家史料(五)を読んでいたら、寛永十年八月十一日書状(1133)の追而書に次のようにあった。
 
   追而申候 此前長岡河内(村上景則)娘縁ニ付申度と申ニ付 其方之者之内女不持者書立給候へと申候
   處 六七人書付給候へ共 其後ハ江戸へ参 又國替ニ取紛やう/\此比存出 右書付之内 松野右京殿
   (正照)之儀申遣候へは はや阿蘇宮神主娘と右京殿被申合由候 左候は此方のを必さし置可申候條被
   申出候ことく いか様ニも可被仕候 此外之書付之者共も 卒度も此方より縁邊之儀申間敷間 いか様ニも
   可被申付候 為念申候 已上

これは三齋の側近長岡河内の娘の縁談をまとめようと、適任者はいないかと探すためのリスト提出の依頼であったらしい。
其のうち松野右京については、阿蘇家と話がまとまったようだからそのように為し、そのほかの者についても縁辺を申し付けることはないというのである。
河内娘の事はどうなったのだろうか。長岡河内は三齋没後八代を離れることになる。娘も父親と行動をともにしたのであろう。
10,000石の河内、娘も100石を頂戴している。光尚の政権下では受け入れられない存在であったのかもしれない。
また松野右京は氏家元高の妹を室とする史料がある。阿蘇神主女はどうなったのだろうか???疑問はまだ残っている。
 

(1)女持不申候者 2008-01-29

寛永九年三月十日付の書状の末尾に「別帋ニ切紙進上仕候、此等之趣、可然様可有披露候(以下略)」とあり、別紙覚書が添えられている。三齋宛忠利の書状であるから、三齋からの依頼に対する返事であろうか。いわゆる独身者の名前を書き出したものである。

 「女持不申候者」
  一、松野右京(正照)
  一、半齋(松野親盛)子・松野長蔵(親治カ)歳廿一
  一、谷 主膳
  一、圖書(藪正成)子・藪右衛門(三右衛門政三カ)歳廿四
  一、左馬允(牧興相)子・牧善太郎(相頼)
  一、藪市正(正直)
  一、右馬助(三淵重政)子・長岡左膳(同之直)歳十九

 明らかに三齋が有力家臣の娘の婿探しをしている事を伺わせる、大変興味深い記録である。過ぎる寛永八年十月、側近の槙嶋云庵女を氏家元高に嫁す事を手配したりしている。
肥後入国直前の話しだが、隠居しても尚こういうことで存在感を示している。


(2)女持不申候者--後日談 2008-01-31

寛永九年三月十日付書状の内「女持不申候者」のリストから、松野右京をはずす旨の書状が、翌十年七月二十一日付(書状案)で発せられている。独身である事は間違い無さそうだが合点が行かぬ話しである。
 同書状の後書きに「尚々、右京殿儀、事之外不辨ニ御座候付而、知行五百石増候へ共、中/\當年なと女房よはれ候儀は調兼可申と、推量仕候(以下略)」とある。肥後入国宿割帳には千石とあり、後の数種の侍帳には千五百石とあるから、五百石の加増がこの時期行われた事が推測される。そんな大身の身である右京が、それでも「女房よばれ候儀は調兼可・・」とは、どう解釈すればいいのだろうか。
 下って八月十三日書状(案)は「松野右京(正照)殿縁邊之儀、先書にも如申上候、右書付上申候内にて御座候、阿蘇之神主(阿蘇惟善=右京とは縁戚関係がある)へハ未不申出候、就其、先度御意之旨、右京殿へ内証ニ而申聞候、被仰出可有御座候間、内々被其意候へと迄申聞候つる・・」とある。「如何致しましょうか、御諚次第にしたいと思います」と三齋に送った忠利の書状であるが、・・・(よく分からん・・?)処で右京さんの奥方は何方なのだろうか、ご存知の方はご示教いただければ幸いである。

 そして、その他の者達(先のリストにあった人達)にも、忠利から「縁邊可申付候」と、結婚を促するような記述が有る。(何故・・どうして・・よく分からん・・?)


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