今般の未曾有の大雨は、阿蘇市で多くの犠牲者を出し、熊本市では白川沿いの低地で多くの住宅が全半壊するなど、昭和28年の水害を思い出させることと成りました。被害地の皆様には後始末でご苦労の中、一昨日熊本も梅雨明けと相なりました。
朝からの蝉時雨は、本当の夏がやってきたことを感じさせます。今日はピーカンとはいえぬ空模様に、昼食後4キロ散歩に出かけました。厳密には3,85キロといったところですが、高低差が25メートル程ありますから上ったり下ったりで結構応えます。歩き出してしばらくすると、陽が射しはじめました。都合45分ほどの行程ですが汗びっしょりです。シャワーをかぶっても、30分ほどは汗が滴ります。毎日とは参りませんが、いまだダイエット効果には至りません。
膝の痛みが出ないことを念じながら、70爺のチャレンジです。
忠利の叔父孝之は天正十三年の生まれだから、忠利より一つだけ年上ということになる。細川家の豊前入国後香春城を預かり25,000石を領したが、一国一城令により廃城となりその任を解かれる。のち忠利から300人扶持を与えられている。
彼の自由気ままな行動はいろいろ記録に残されているが、藩主忠利にとってはまことにやっかいな叔父であったらしい。
寛永四年正月廿七日書状案(224)には、困り果てて忠興に泣きつかんばかりの忠利の心情が伺える。
以上
謹而申上候 仍中務殿(孝之)心易京へ上下を仕 小倉を居所ニ定 気をも延度之由にて 我等ニ御申候ハゝ
成間敷とて 御かくし候て法躰にて御座候 我等と中務殿と申様 書付にて取かハし申候間 懸御目候 京へ
御越候而 第一賄もつゝき申ましく候 其上不入様ニ存候間 色々留申候へ共 其段は同心無御座候 京へ御
越候而も心まゝにハ有間敷由堅御申候 如何御座候ハん哉 得御内意候 たとひ在京不入儀と思召候とも
我等申候分にてハ 此儀ハ同心有間敷候 御内意も有やうニ不申候ハゝ 成ましきと存候 如何可有御座候
哉 此等之趣 可然様可有披露候 恐々謹言
正月廿七日
長舟十右衛門殿
書状は忠興に宛てられているのだが側近を介して披露されるので、宛名は長舟十右衛門となっている。
この書状に対する忠興の返事が存在すると思われるが、現況見つけ出すに至っていない。
この年忠利は42歳、叔父孝之は43歳である。