細川家の豊前時代の侍帳「御侍帳并軽輩末々共ニ」をみると、寺社領という項目がある。
秀林院(忠利公母公・明智光秀女)-百石とか、宇佐神宮-千石、安国寺(肥後御入国之御供、今高麗門ニ有)-三拾石などとともに、彦山座主坊-千三百四拾石九斗二升四合八勺とある。昔は西国一の修験道場であったらしいが、現在は彦山神社となっている。
http://hikosanjingu.or.jp/news/index.php?e=57
英彦山神社のサイトにも見られるように、細川忠興が豊前に入り、前座主舜有の孫娘に日野大納言輝資卿の三男を養子として座主職につけた。忠興の一字を与え忠有と名乗った。座主の妻に三百石、政所領として七百石が与えられるなど、厚遇ぶりが目に付く。
日野大納言と忠興の関係がどのようなものであったのか、良くわからないでいる。
細川家が豊前を離れた跡は小笠原家が面倒をみたようだが、「真源院様(光尚)御代御侍名附」においても、寺社領として「百石-彦山座主」と見える。
細川家の深い思い入れが何故なのか、これまたよくわからない。
ちなみに英彦山と書いたり彦山と書いたりしているが、読みは「ひこさん」である。これは霊元上皇から「英」の文字を頂戴したことから冠したものだとされる。