津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本藩の支配機構--6 「御勘定方」

2014-12-05 08:45:04 | 史料

■御勘定方
一、当時御奉行所内御勘定方と申候ハ以前ハ無之 御勘定方則御勘定所ニて寛永ゟ延宝年中迄ハ御奉行局頭ニて有之候 御勘定方と申候ハ宝暦五年六月相究リ候 天和元年御勘定
  頭
三人被仰付 間所ハ長岡佐渡差図ニて只今之御勘定頭詰所仮家ニ出来いたし候 其以前は御勘定役と申候御役名之者御取立ニて被召仕 御勘定所当用方ニ相詰候由 今之根取
  と
申場ニて御座候 寛永・慶安・承応・明暦・寛文年中御米銀詰払目録御勘定所ニ残居候も有之候 其目録御奉行所仕出 御家老ニ当テ上も見へ申候
一、御積帳ハ天明二年ゟ致出来 夫ゟハ連綿と出来仕候 御積帳しらへハ宝暦六年ゟ始リ申候 総て御積帳仕立様ハ宝暦年出来之帳を踏へニ仕候事
一、御前達之御積帳ハ宝暦年中ゟ差上ニ相成候処 重賢公御代迄ニて其後は上リ不申候
一、享保三年月々現差引帳差上ニ相成候処 文化八年ゟ御勝手方手元ニ留置申候事
一、右之外御勝手方上聞・大御奉行迄相達候帳面数々御座候事
一、御勘定所根取之内ニも御積方当用方等之請込有之候事
一、御手伝慶長十一年江戸御場外廓之石垣を始 同十三年・十五年・十七年・十九年と引続方々御城御普請御座候 其後七年目元和六年大坂御城 寛永元年右御同所 同五年右御同
  所其後九年目同十三年江戸御城石垣御普請御手伝被蒙仰候由 爾来二十三年目万治元年御本丸大手御門台外石垣御普請御手伝有之候 将亦明暦四年江戸幸橋石垣御普請
  右同断之処 御入目等ハ相分不申候
一、明暦四年ゟ五十二年目宝永六年 上野御仏殿御手伝之節ハ拾五万両計も御出方有之 其後三十四年目寛保二年ニハ利根川御手伝右同高位罷出方有之候 公儀ニは拾弐万七千
  弐百三十両と御書出ニ相成申候事
一、宝暦十二年増上寺御手伝之節ハ拾三万四千七百弐拾五両 夫ゟ二十四年目天明四年武州上州信州川々御普請御手伝八万四千六百七拾壱両余御出方ニ相成申候 右之通之御
  先蹤有之候得は 何時可被蒙仰哉も難奉測事ニ付 余之事ハ如何様とそ御省略を以 此御手当ハ無之候て難叶事と相見申候事
一、御家中手取 寛永九年ゟ延宝七年迄は地方ニて被渡下 或は御蔵渡も有之たる哉ニ相聞申候 延宝八年三拾石手取御蔵前ニて被渡下 貞享元年ゟ地方渡ニ相成 正徳二年迄二十
  九ヶ年同様 正徳三年ゟ又々御蔵納ニ相成 御役付百石高弐拾三石 無役ハ弐拾石手取と相見 其後寛保三年ニハ御扶持方計ニ少々ツゝ之増扶持を被下候 上ニは御参勤も被為差
    支 御家中ハ飢寒を淩兼候 寛延元年ニいたり高百石ニ拾三石手取 無役ハ拾壱石手取リニ相成候 宝暦四年御役付ハ高百石ニ拾七石 在宅ハ御役付熊本居無役同禄高百石ニ拾
  五石手取ニて 其後少々宛之増減有之候処 百石高ニ弐拾石手取を最上とす 最下之手取も百石高ニ拾弐石ゟ減候事ハ無御座候 尤安永二年ゟ天明元年迄ハ拝領米も有之 
  文化年中ニも年ニより少々宛拝領米ハ被仰付候事
一、御年貢米只今通年内皆済と申儀ハ宝暦六年ゟ始り申候 其前ハ年内三ケ二 三ケ一は翌年三月七日両度ニ納来候事
一、御勝手向ニより江戸・大坂其外他所向御國共ニ御借物高増減有之候得共 事繁冗ニ付て記不申候事
一、公儀御拝借之儀享保十七年年御国中田方虫付御損毛付て 従公義弐万両御拝借金被仰付候 御返納之儀は寅之年ゟ五ヶ年賦米金を以御上納相済候事
一、宝暦六年六月 領分去亥六月八日強雨大風ニて両度之亡所永荒夥敷有之 難渋可仕と被思召上候 依之金弐万両拝借被仰付候 上納之儀は御勘定奉行可被談候
     御領分損毛ニ付拝借金弐万両分銀ニて大坂御金蔵ゟ相渡候間可被得其意候 彼地御金奉行も右之段申達置候
一、寛政四年九月 其方領分去年以来打続候水害 殊ニ当年高浪之様子ハ別て不宜趣 人民之死亡破損之ヶ所も不少相聞候 救其外普請等も専取計可有之儀ニ候処 上納金をも被
  致候以後之儀ニ候得は 其手当可為難儀与被思召上候 依之金三万両拝借被仰付候 尤領分損毛水害等付て都て拝借被仰付筋ニ無之候得共 前書之次第ニ付各別之訳を以被仰
  出候儀候間 可被得其意候 返納之儀ハ来々寅年ゟ十ヶ年賦上納可被致候 幷先達て之上納金残分は来年ゟ以後勝手次第連々ニ可被相納候 委細之儀は御勘定奉行可被承合候
     子九月
一、銀札之儀 宝永元年始て御国中通用被仰付候処 同四年之冬従公義停止被仰付 御差支ニ付被仰付置候銀札之事故 漸四歩一銀ニ引替被下 下方難渋仕候 其後享保十八年公
  義御願立通用被仰付候 同二十年下方難渋付て正月ゟ十月迄御休メ被置候処 御勝手支候付 江戸詰小笠原多宮・津川平左衛門ニ長岡帯刀・長岡丹波・有吉大膳・小笠原備前・
  沢村衛士ゟ申越候書状之内ニ 当暮御勝手大積之儀莫大及御不足 種々致讃談候得共 一円償之筋不相見候 依之当春被休置候銀札猶又通用被仰付候段相見 翌元文元年拾月
  ゟ又通用御休メニ成候処 延享三年江戸詰小笠原備前ニ御家老中ゟ申越書状之内ニ 御勝手向之儀年内如何躰ニも難被押移 春以後は一向ニ明キ申様ニ成行可申候 殊更御巡
  見之御衆御下向ニて候ヘハ 何程御倹約ニても闕候ては難叶 御休メ被置候銀札を御出し可被成哉之段相見 延享三年札遣有之候処 其夏ニ至り被差止候 札高銀弐三千貫目宛
  之事と相見申候事
一、御銀所預之儀 志水次兵衛ニ遠坂関内申談候て 寛政四年子十月より振出被仰付候事
一、右同 五匁預弐匁五分預ハ同十一年十一月ゟ振出申候 弐匁五分預ハ松下久兵衛主ニ成申談候 然処板行銀札ニ似寄候間 公辺ニ相聞候時ハ如何可有之哉と江戸表ニ申越
  井上加左衛門ニ問合せ申候処 御内々御役人衆之内ニ承合せ候処 預手形と申物ニて差障無之段 加左衛門ゟ返答有之候事加左衛門来状は相見不申候 
一、弐匁五分以下之銭預 文化五年辰十二月ゟ鶴崎御郡代預ニより振出ニ相成候 此節小預ゆへ猶又公辺之儀如何可有之と 池永喜三右衛門・落合仙助江及問合候処 少も差障有
  之儀ニて無之 鶴崎方角と片付キ不申御国中あまねく被行候方と申越候事       

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