津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■齊護公をまとめる

2014-12-02 09:10:41 | 史料

 来年一月から熊本史談会では文政六年の「参勤交代道中記」を取り上げようと思っている。これは宇土支藩の立政に随伴した上羽氏の筆によるものである。
14歳で藩主となった立政は当時18歳、五年後(23歳)には本藩を相続することになる。
そんな齊護公についていろいろな記録をさかのぼりまとめてみようと思い立った。

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藤孝--忠興--忠利--光尚--綱利--宣紀--宗孝--重賢--治年--齊茲--齊樹--齊護--韶邦--護久

 細川家第十二代 細川齊護公

細川越中守源齊護ハ末家宇土細川和泉守立之ノ男ナリ(文化元年甲子九月十六日江戸永田町邸ニ於テ生ル、生母(老中)土井大炊頭利厚女・富 トミ 天保十二年辛丑閏正月廿七日卒 年五十五 法号・栄昌院桂林自香 清光院ニ葬ル) 初與松ト穪ス 文政元年戊寅八月父立之ノ遺跡ヲ継キ二年己卯十月十四日始テ将軍家齊ニ謁見十二月従五位下中務少輔ニ任叙シ立政ト穪ス
九年丙戌二月宗家越中守齊樹疾篤シ立政ニ家ヲ継カシメント請テ卒ス 立政三月廿九日齊樹ノ遺領相續五月従四位下侍従ニ任叙越中守齊護ト改ム
(生母・栄昌院立政の本家相続に当たり教訓の書を呈す)  佳代子夫人と栄昌院さま  大夫人・栄昌院様

五月初テ封ニ就キ家中へ申渡條々 一ニ曰我等先代ノ不幸ニ因テ不慮ニ宗家相續今度初テ入國シ難有事ナレ共大國ヲ領スル事當惑ノ次第ナリ然共國政ノ儀ハ先祖以来代々ノ舊規有之就中寶暦以来ノ掟堅苦相守ヘシ尤時宜ニヨリ家老共へ申付沙汰ニ及ヘキ事モアラン 二ニ曰家中ノ者共文武ノ稽古相励ミ満足セリ愈以テ心懸申ヘシ 三ニ曰何レモ存之通年来物入打續キ勝手向難澁ニ付省略筋ノ儀ハ先代ノ申付通我等ニ於テモ屹ト心ヲ用申ヘシ家中ハ自己ノ節倹肝要タリ 四ニ曰志ノ筋アラハ書付封印ヲ以テ差出へシ代々言路ヲ聞置レ我等ニ於テモ同前ナレハ家中モ其旨心得ヘシ

十一年戊子二月十四日若年ノ軰朋友ノ交深ク切磋琢磨ハ當前ナレ共近来ハ何方連ナトゝ唱へ方角違ノ族ニハ隔意ヲ挟ミ争論ケ間敷儀モ有之趣ニ相聞心得違ノ事ナリ 應接ノ間親疎有之ハ勿論ナレ共同シ家中ニ遠近ノ違親疎ノ譯ニ由テ自然確執ヲ生シ黨ヲナスノ形有テハ相済カタシ已来一統熟和ニ相心得文武ノ稽古相励ムヘキ旨布告ス

十二年己丑二月八十歳以上ニ酒肴ヲ與フ 家中四百人餘在二千三百人

天保五年申午十二月左近衛権少将ニ轉任
十時月江戸ヨリ家老中へ親書ヲ與へ家中ヘモ示ス 其略ニ曰文武ノ藝ハ風化ノ本ユヘ心ヲ用誘掖スヘキ旨去春出立前ニモ申聞置其後書中ニモ申遣タル處當年歸國ノ暇賜ハラス就テハ競ヲ失申ヘキモ難計愈以テ追々申聞タル旨相心得監物長岡ナリ 式部松井ナリ両人共家老 両人ハ年若ニモ有之事ニ付主ニ成諸生ヲ勵シ精麁ヲ試ミ誘方心ヲ用申ヘシ

八年丁酉正月廿五日救荒ノ策は仁政ノ先務ユヘ寶暦改正ノ初租税ノ内ヲ分チ年々圍籾申付村々ヨリモ作初穂等差出上下持合ニテ手當ノ基本相立タル處ヨリ一統其餘風ヲ受ケ豪冨ノ者ハ寸志銭差出小前ノ者ハ作徳米差出彼是ニテ村備モ手厚ク文化度ニ至リ四窮民救恤ノ仕法モ組立天保ヨリハ上ケ米二萬石モ圍ヒ申付タレ共國民數十萬口ニ亘リ成丈ケ丈夫ノ備ニコレナクテハ中々手ニ及難ク然ルニ去春以来諸國凶荒ニテ道路ノ餓莩不少當國ハ幸トシテ阿蘇・久住邊鄙ノ外左マテノ事モナシサレ共天道ハ了簡ノ外ニテ自他一般非常ノ不作何時到来モ難量依之勝手向必至度差支ノ折柄ナレ共當秋田租ノ二割通引放籾備へ申付ル

二月大鹽平八郎其子格之助大坂ニ於テ衆ヲ集メ乱ヲ成ス 遂ニ敗レテ商家ニ潜ム 幕吏圍テ之ヲ捕ントス 父子遁ルへカラサルヲ知リ火ヲ放テ燔死ス 其餘黨十人齊護ニ預ケラレ三人牢死七人ハ翌九年八月刑セラル

十一年庚子三月十三日嫡子雅之進従四位下侍従ニ任セラレ兵部大輔慶前ト改ム 慶前ハ齊護實家ニテ出生ノ子ナリ 本家相續後天保五年正月養家へ引取八年五月嫡子ニ定メ茲ニ至テ叙任此末嘉永元年四月十四日部室住ニテ卒ス

十三年壬寅十一月勝手向差支ニ付手元ノ分料ヲ初局々受込金諸品代共悉皆三歩通リ減少家中難澁ノ者モ本計ノ負債は一切捨遣シ其餘支局の負債は五年ノ間取立疂置公私立行ノ土臺ヲ定ム且是マテ難題申出サル者ヘハ心付米ヲ與フ

弘化元年甲辰三月家中ノ心得新書ヲ以テ相示ス 其略ニ曰遂年家中奢美ニ流レ風俗不宜且役付ノ内ニハ職掌ノ擔當薄ク届兼ル者モ不少就テハ去々冬屹ト示シ置タル趣アレハ當年ハ下國シテ諸事相守ル哉否見聞致ヘキ處圖ラスモ滞府ト相成永キ留守中如何何ト案労ノ至ナリ サレハ大小身共一己々々ノ分限ヲ辨ヘ實意ニ節倹ヲ用ヒ禮義廉耻ヲ守リ文武ノ藝術愈以テ相勵ミ役付ノ者ハ當務ニ身ヲ委子配下附屬ノ者ヘモ厚ク申諭シ是非共我等安心ノ場ニ至ル様覚悟イタスへシ 

二年乙巳五月幕府ヨリ召サレ高祖父以来ノ治世其宜キヲ得ルヲ賞シテ時服 三十襲 及鞍鐙賜ハル

嘉永六年癸丑六月相州浦賀へ亜米利加使節舩四艘突然渡来内海侵入モ量リ難シトテ齊護本牧邊防禦ノ命アリ 依之一番手物頭都築四郎・二番手番頭志水新丞等ヲ初メ數百ノ人數急速ニ出張ス 此時都下騒然萬一夷舩侵入セハ齊護モ出馬スヘキ旨閣老ヨリ傳へケレハ幕府は征夷ノ職ニシテ旗下兵馬足リ器械具ス 然ルニ遠國ノ諸侯在邸ノ人數モ寡少ナルニ一番二番出兵ノ令アル耳ナラス 又自身出馬ノ令アルハ軽率ノ甚キナリト論スル者アリ 齊護コレヲ聞テ如是非常ノ節ニ臨ミ出馬ノ令ヲ蒙ルハ武門ノ面目ナリ 聊モ猶豫セハ租宗ノ遺志ニ悖リ且世上ノ嘲リモ免ルヘカラス我單騎ニテモ馳セ向ヘシ汝等論スル事勿レト云既ニシテ異舩退帆人數モ引揚ケタリ
十五日召ニ依テ登城シケレハ今度異舩渡来ノ處警固ノ人數勉勵セル趣懇切慰労セラレテ茶菓美饌ヲ賜ハル
七月朔日亞人ノ呈書冩閣老ヨリ相渡各思慮スル處ハ忌憚ヲ憚ラス上言スヘキ旨ヲ傳フ依之建白ノ概略其一ニ曰亜墨利加舩ヨリ上ル書翰和觧ノ表ニテハ専ラ懇切ノ情ヲ以テ和好ヲ結ヒ博ク人民ヲ愛スルノ辞アリト雖共夷情難量其上本朝ノ大法交易ハ勿論通信モ従来定メラルゝ蕃國ノ外ハ一切謝絶セリ故ニ今叨リニ願望スル處ヲ免サレナハ彼忽チ凱覦ノ念ヲ増サン許サゝルニ如カス 然共遼遠ノ國ヨリ態態使節差越タル事故我返翰ニハ随分丁寧ヲ盡シテ彼カ願ニ難應趣無餘儀事情ヲ以テ諭示サレ漂泊撫■(血ニ阝)ノ類ハ差許シ玉フヘシ 尤使節ノ上書中無禮驕慢ノ意モ見へケレ共蠻夷ノ鄙意ハ恕セラレ一時寛ナル権道ヲ施シ急ニ事破レサルヤウ處置セラレテ其内ニ一統防禦ノ備猶更厳重ナラン事ヲ要す 其二ニ曰前條ノ通ニテモ自然狼藉ニ及ハゝ我皇国ノ武威ヲ以テ攘斥スヘシ其時ハ順逆曲直ノ理名實正シク彼敵シモ亦其妙ヲ盡ス 本朝ハ數百年ノ昇平ニ浴シタル末ナレハ容易ノ備ニテハ成リ難カルヘシ 其三ニ曰國々海岸ノミニアラス府内人戸稠密ノ地ハ放火モ亦恐ルヘシ 依之近海ノ要害ニ新地ヲ築キ臺場ヲ設テ防禦ノ備ヘ整ヒナハ縦令内海へ乗入ルトモ左マテ驚クニ足ラサルへシ 故ニ先急務トスル處ハ士氣ノ奮發ト粮穀ノ運送ニアリ且要スル處ハ東西奔命ニ疲レス 富國強兵ノ策略専一ナラン事ヲ庶幾ス

十一月相模國備場受持防禦筋委任且相模武蔵両國同様管轄スヘキトノ幕命アリ 依之早速臺場居付ノ大筒製造國元ヨリハ一大隊ノ備人數并大筒手及奉行以下許多ノ役員呼寄是ヨリ年々交代申付其後武蔵國ノ内安政元年十二月二千五百石餘四年七月一萬五百拾二石餘管轄増ノ令アリ

安政二年乙卯九月親書ヲ以手相示ス其概略ニ曰勝手手向ノ儀追々省減申付タレ共聢ト甘キモ出来サル内去々夏江戸近海へ異舩渡来後相州備場受持ノ命ヲ蒙リ人數ノ往返兵器ノ製造等多端ノ事ニテ莫大ノ用途差添其後モ異舩ノ摸様不穏風説アレハ方今ノ急務國力ヲ養ヒ武備ノ手當専要ニテ幕府ヨリモ追々沙汰ノ旨アリケル故来年ヨリ五ケ年間猶一際格外ノ節倹申付ル 勿論我等我等手元ノ不自由は聊厭ハス参勤行装等モ省略ヲ用其外諸事例格タリ共成丈省略イタシ役々一際荷ヒ厚ク非常ノ手當主一ニ心懸家中モ右ノ趣意ヲ以手愈誠實二質素節倹ヲ守リ銘々相應ニ非常ノ備モ不薄様心ヲ用ユヘシ

三年丙辰十二月左近衛権中将ニ轉任

四年丁巳亜墨利加使節ヨリ再應申立ノ趣アツテ十二月廿九日萬石以上ノ諸大名ヲ幕府ニ召サル 齊護ハ在國故嫡男慶順登城ノ處使節ヨリ差出タル條約下案ノ箇条書縮メタル一冊ヲ以テ策問アリ 依之翌五年戊午正月八日慶順言上ノ略ニ曰家康公一統ノ砌鎖國ノ制度ヲ立ラレシハ深ク時勢ヲ知ルノ卓見ナルヘシ然ル二近来全世界ノ形勢一變シ萬里ノ波涛モ比隣ノ如ク往復スルニ至ル如斯時節ニモ強テ舊章ニ泥マレテハ必不測の禍端ヲ引起却テ家康公ノ趣意ニ違却スヘシ因テ右等ノ筋合重疂會議セラレ渠ヨリ申立ノ稜々斟酌ヲ以テ處置アリ度慶順ニ於テハ未タ各國ノ事實モ熟知セサレハ如何トモ陳言シ難ク謹テ高諭を待ノミ サテ亦二月齊護ヨリ言上ノ略ニ曰抑世界變化ノ時勢ニ應シテ皇国安寧ヲ慮ラレ舊来ノ制度ヲ即今革メラルゝハ勢止ヲ得スト雖共渠ヨリ強テ願ニヨリ従来ノ國典變革スルハ寔ニ遺憾ニ堪サル次第ニテ後患モ亦量リ難シ蓋斯ノ如キハ周ク廟議ヲ盡サレテノ處置ナルヘシ我豈ニ是非ヲ述ヘンヤ然共人心安不安ノ一條尤慎ヘキナリ若人心安セスンハ渠ニ對シ不法ノ擧動ヲ成テ如何ナル乱階ヲ生センモ計リ難ク然レハ一時邦家安寧ノ處置モ後日ノ患害思サルへケンヤ 故ニ此上ハ幕意ノ向フ處一統疑惑セスシテ一途ニ感戴スヘキ様ニ命令ヲ布カレ政道非常ノ大變革ヲ施シ玉ハゝ人心居リ合且改正モ堅カルヘシ 條約廉々ノ内不安意ノ處モアレ共元萬國ノ形勢ニ暗ケレハ強テ鄙見ヲ吐露スル能ハス 只管憂慮スル所ハ天下ノ人心安不安ノ一條而己

五年戊午五月諸侯ニ令シテ云 亜墨利加條約一條 勅答ノ為閣老堀田備中守上京ノ處勅問書ヲ賜ハル其旨趣墨夷ノ事ハ神州ノ大患國家ノ安危ニ係リ誠ニ容易ナラス神宮始メ奉リ御代々ニ對セラレ恐多思召サレ随テ東照宮以来ノ良法變革ハ闔國人心ノ歸嚮ニモ■(扌ニ匂)リ永世ノ安全量リ難ク叡慮ヲ悩サル 尤往年下田開港ノ條約容易ナラサル上今度假條約ノ趣ニテハ國威立難ク且諸臣ノ群議モ今度ノ條々ハ國體ニ■リ後患者測リ難キヨシ言上セリ 故ニ尚三家以下諸侯ヘモ命ヲ下シ再應衆議ノ上言上スヘキ旨ト勅諚ニテ素ヨリ戦争ノ叡慮ニハ非ストナリ 依之備中守江戸へ歸リ墨ノ使節ヲ招キ毎々談判セル條約ノ筒條直ニ施難ハ兼テ云ル如ク人心ノ居合兼ル處ニテ此等深ク叡慮ヲ悩サル趣巨細諭シケレ共一旦双方談判を整ヘテ後人心ノ居合等ニテ拒絶スルハ萬國ニ無之ノミナラス史書ニモ嘗テ見サル處ナリ抔申募テ承諾セス於是備中守猶諭セルニハ委細ノ事情両三日ヲ経其掛リノ役員ヲ以テ告ント使節漸ク諾シテ退ク 因テ各思慮スル所アラハ建言スヘキ旨幕令アリ 齊護権限ノ趣意左ノ如シ 方今渠ニ接スル策略寛急両端アリ 一時ノ小憤ヲ忍スメ俄ニ交情ヲ絶トキハ不日ニ兵端ヲ開ン防禦ノ手當如何又暫ク事ヲ寛ニシテ防禦ノ手當十分整フトキハ萬全ノ大謀アランカ實ニ生民塗炭ノ機二臨メリ 夫東照公以来ノ舊典ハ萬古不易ニシテ革ラシ難ケレ共近十年外洋各國ノ形勢變革ニ随ヒ愾艦ノ如キ物發明シテ航海ノ術益開ケ天涯モ比隣ノ如ク加之軍制兵器等各國實戦ニ試ミテ妙ヲ盡シ且強弱モ往古ト勢ヲ異ニシ異人ハ禽獣ノ如ク卑シメ来ルト雖共今ヤ各國往々非常ノ人才出テ強大ノ國ト成リ世界中割據ノ勢ヲ振へリ而メ我皇国ノ武威素ヨリ渠ニ敵スヘシト雖共二百餘年ノ大平鎖國中渠カ一變ヲ量察セス 只我古ノ強ヲ頼未今茲ニ容易ニ兵端ヲ開カハ後害如何ソヤ縦令渠強國タリ共一國ナラハ防禦難キ二モ非サレ共渠同盟合従シテ皇国ノ沿海ニ隠見出没シ或ハ海岸ノ不虞ヲ襲ヒ或ハ海路ノ運漕ヲ絶ハ我ハ渠ニ應スル軍器軍艦ニ乏シテ只東西奔命ニ労ルゝノミサレハ我労シ渠逸ス 譬ハ一小國ヲ以テ世界中ノ強国ト常ニ對陳スルニ均シ縦令一時ノ勝利ヲ得トモ竟ニハ國力疲弊シテ自ラ殪ルゝニ近カランカ寔ニ容易ナラサル一大事件ナリ 此節止ヲ得サル時機二テ外関港貿易ヲ起サハ内ニハ政典ヲ大變革シテ治世ノ華美驕奢駁雑無益ノ幣風等断然改メラレ一統ノ耳目ヲ一新シ簡易無造作ノ古風ニ復シテ上下一致専ラ軍事ニ身ヲ委子富国ノ基ヲ立テ彼ヲ知リ己ヲ知ルノ理ヲ擴メ渠カ實戦ニ嘗ル所ノ軍制兵器大艦等ハ深ク之ヲ研究シ我固有ノ長所ヲ合セテ而後渠カ無禮ヲ數へ之ヲ攘フ勢ニ成ラハ我武威益全世界中ニ輝カン而己

十一月二十三日位階従四位上ニ叙セラル

萬延元年庚申正月齊護致仕シテ家督ヲ嫡子慶順 後韶邦ト改ム ニ譲ラン事ヲ乞幕府許サス 然共病癒サルヲ以而二月ニ至リ猶乞ケレハ格別ノ年輩ト云ニモ非ス病ハ療養ヲ加へ気宇爽カナル時出仕シ心永ニナスヘキトノ懇諭アリ 故ニ止ヲ得ス姑ク止リ滞府シテ慶順ヲ本藩ニ遣シ國政ヲ監セシム

三月三日早朝士四人我龍口邸内ニ趨来案内ヲ乞 廣間番大嶋五郎八ナル者應接ス 彼云我輩ハ水藩大関和七郎・森五六郎・杉山彌一郎・森山繁之助ト云者ナリ同類都合十七人相謀リ今朝外櫻田二於テ大老井伊掃部頭登城セントスル途中ノ行列ニ斬入リ掃部部首ヲ討テ己ニ素懐ヲ遂ト雖共敵ト合戦ノ混雑ニテ同類散乱シ各其在ル所ヲ知ラス殊ニ我済始テ都下ニ出テ南北モ辨セサレハ貴邸モ亦誰ノ侯ナルヲ知ラサルナリ 今素懐ヲ達セシ上ハ謹テ公裁ヲ俟ノ外他ノ念ナシ 伏テ乞貴邸ノ周旋ヲ煩ハサン事ヲ言語爽然神色自若トシテ衣裳血ニ塗レ其内三人ハ處所創ヲ被レリ 齊護之ヲ聞テ家臣等ヲシテ座敷ニ延キ座着セシメ且番衛厳ニシテ此旨幕府へ達シ水戸邸ヘモ告タリ 其夕大関等四人ノ外同類黒澤忠三郎・蓮他市五郎・齋藤監物・佐野竹之助四人ノ者モ預ケラルゝノ令アリ 此黒澤等四人ハ今朝ノ一擧後脇坂邸ニ奔テ自訴ス 依テ物頭銃卒ヲ率テ脇坂邸ニ赴キ 此トキ佐野竹之助ハ創ニ因テ死ス 黒澤等三人ヲ受取邸内ニ別室ヲ設テ七人ヲ茲ニ居ラシム サテ彼七人ハ孰モ井伊家不天ノ讐ナレハ何時迫リ来テ報復ノ擧動アランモ計リ難ク又評定所へ往来ノ途中ヲ妨ンモ計リ知ルへカラス 然ルニ必死ヲ以テ之ヲ拒マハ井伊細川両家ノ混乱ヲ生センモ測リ難シ 依之七人ハ幕府ニ呼取ラレ處置アラン事ヲ閣老内藤紀伊守ニ訴へケレハ三月八日大関以下一二人宛所々ノ侯邸へ分布シテ預ケラレタリ

四月十七日齊護卒ス年五十七                                                           細川齊護譜より

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             齊護公御家督一件之事 (一)
              ■齊護公御家督一件之事 (二) 

              ■齊護卿遺事 ・・ 1
              ■齊護卿遺事 ・・ 2
              ■齊護卿遺事 ・・ 3

              ■熊本藩主=細川斉護の「実学連」排除 : 「学校党」は存在したか」 

              ■御代々様御参勤御帰国 (11-了) 齊護公

              ■五(護)兄弟
              ■慶前公の死

              ■細川齊護公「道の記」 -- 1
              ■細川齊護公「道の記」 -- 2
              ■細川齊護公「道の記」--3
              ■細川齊護公「道の記」-4
              ■細川齊護公「道の記」 -- 5
              ■細川齊護公「道の記」 -- 6 (完)


 +---細川重賢------治年===齊茲---齊樹===齊護・・・・・・・・・・・・・→細川本家
 |              ∥
 +---清源院       
       ∥
 +---細川興里
 |              ↑
 +---細川興文---+--    ↑            ↑
             |      齊茲            齊護
             +--------立禮---立之---+---立政
                               |
                               +---之壽(行芬)・・・・・・・→宇土細川家

 

 

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