津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大友家由来の細川家家臣

2014-12-08 11:13:42 | 歴史

 慶長五年石垣原の戦いで大友家復活の望みを託し、大友義統が黒田如水に戦いを挑んだが一敗地にまみれての敗戦となった。
大詰めとなった大河ドラマ「黒田官兵衛」でも昨日石垣原の戦いが取り上げられていたが、吉弘統幸役の的場幸司がなかなか好演していた。
大友家嫡流は高家として明治に至ったが、一族は五家が細川家に仕えたし、吉弘統幸の子孫その他大友氏由来の人々が多く細川家家臣となっている。
その時期については詳細を知りえないが、今後の課題としたい。

 

   ■松野氏(旧大友氏)
 
                  +----義乗-----義家(無嗣断絶)==義孝(旗本大友家・高家)
                  |
 大友宗麟---+---義統---+----松野右京---+--主殿------主殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二千石・孫三郎家)
         |                     | 
         |                     +---義孝(旗本大友家・養嗣子となり再家) 
         |                     |
         |                     +---義冬(旗本松野家創家)
         |
         +---利根川道孝----松野織部---+==亀右衛門==亀右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(千五百石・亀治家)
         |                     |           
         |                     +----善右衛門----又右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(五百石・一葉家)
         |                                  
         +---半齋--------八郎右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (千七百石・八郎家)

   ■吉田氏 義統の嫡男で幕府高家であった大友義乗の二男・義親の子孫とされる。・・・・・・・・・・・・・・・・・(五百石・淳スナオ家)


   ■吉弘氏 石垣原の戦で事実上の大将役を務め戦死した、吉弘統幸二男が肥後吉弘氏の祖。実兄政宣は柳川立花家臣、その室は下津棒庵女である。  

    大友宗麟---義統
             ∥         柳川藩1000石
         +--菊姫        +---政宣(室・下津棒庵女)
         |             |   初代             2代
 吉弘鑑理---+--鎮信---統幸---+---加左衛門・政久---+---藤左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(三百五十石・加 家)
  耳川討死   |高城討死  石垣原討死|              |   初代
         |            |              +---専右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(百石・貞 家)
         |            |
         |            +---筑紫大膳 1000石 
         |          柳川藩主
         +--高橋紹運---立花宗茂---●
                            ∥
                   細川藤孝---興元 
                           谷田部藩主

    ■清田氏  大阪夏の陣で鑓働き一番と、忠興の激賞を受けた清田石見は、清田鎮乗の子である。鎮乗の父の継室は大友宗麟の娘(元土佐国司一条兼定室)である。
           鎮乗娘は忠興の側室となり、細川立允、刑部兄弟の生母である。鎮乗の弟・五郎左衛門は刑部付きとなり、子孫もまた刑部家に仕えた。

 大友宗麟-----●(ジェスタ)
             ∥ 
          清田掃部鎮忠----+--鎮隅
                     | 
                     +--五郎大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(二百石・直 家)
                     |
                     |              ガラシャ       (1)                    (8)     (10)
                     |               ∥-------------忠利・・・・・・・・・・・・・・・・・・齊茲・・・・齊護
                     |             細川忠興                     ↑    ↑
                     |               ∥       +--立孝(宇土細川家)・・・・・・立禮・・・・立政    
                     |               ∥--------|
                     |               ∥       +--興孝(刑部家)
                     |           +--幾知(圓通院) 
                     |           |          
                     |           | 石見守   
                     +--主計鎮乗----+--七助乗栄 (室・忠興妹伊与の娘)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(二百石・弥八郎家)
                                  |                    
                                  +--与三右衛門(刑部家附)  
                                  |                   
                                  +--左近右衛門 

   ■加来氏 加来佐々衛門は細川忠興養女・お三の実父。お三(源立院)は宇土藩主細川行孝室、有孝の生母である。加来民部少輔は大友宗麟股肱の臣といわれた。加来氏は賀久荘の地頭職、その詳細はサイト「賀久荘・由原宮膝下の荘園」に詳しい。

兵右衛門---・---三右衛門(八代分領解体後本藩家臣)
         |
          ・---三七(若死)---------お三(立法院養育・忠興養女--行孝室)
         |
          ・---いせ(立法院・忠興側室北の丸殿)
         |
          ・---佐左衛門(八代分領解体後本藩家臣) 
                       (舟田義輔氏・宇土細川支藩成立の前後より引用) 

   ■安東氏「丸に九の字の家紋」の安東氏は、祖・式部少輔が「耳川の戦」で戦死している。三家が細川家に仕えた。 
   ■清成氏 祖は田原刑部小輔、「武家家伝-田原氏」に詳しい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(二百石・武衛家)
   ■北里氏 
   ■志賀氏 元岡城城主であった志賀氏は、加藤清正臣を経て細川家に仕えた。
   ■首藤氏 先祖附による。
   ■都甲氏 森鴎外の小説「都甲太兵衛」の都甲家の細川仕官は割と早い。
   ■吉岡氏 大友三老の一人と言われた長増の妻・妙林尼は薩摩の島津相手に勝利しその名を残した。息甚吉(椎原五郎左衛門)は鶴崎城主、大友没落後細川家臣となる。
   ■財津氏 日田氏の一族
   ■一萬田氏 大友氏庶流
   ■木付氏     同上
   ■佐田氏  豊前宇都宮氏の一族

その他家臣や臣従者として、赤星、内空閑、甲斐、鹿子木・蒲池・帆足・宗像・江藤氏等々多くの家が肥後に定着している。
(脱落が多いと思われるが諸兄のご教示をいただきたい)

                                只今書き込み中
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本藩の支配機構--9 「御吟味方」「惣銀方」「御切米方」

2014-12-08 06:57:36 | 史料

御吟味方
一、宝永二年 銀札方御目附ゟ一人 御客屋奉行十人横目之内ゟ二人御中小姓被仰付 御吟味役被仰付候 是御吟味役始りニて御座候
一、元文二年 藤崎作右衛門・長谷川主水御勝手方御用被仰付 右両人ゟ御用談シ方可有之旨御奉行ゟ達有之候事
一、同三年御郡間・御勘定所御目附兼相勤候様達有之候事
一、御勝手方根役藤崎作右衛門・長谷川主水より 諸御役所御米銀請払日々引合候達ニ及 右宅ニ相詰候事
一、宝暦二年 集銀御仕立御仕法ニ付 御吟味役ゟ取計被仰付候事
一、同四年十一月 櫨方会所建継出来 吟味方と相改是迄之通御用しらへ被仰付候事
一、同六年七月 御吟味役御奉行触ニ被仰付候事
一、享和三年十一月 右外ニ諸間詰御吟味役被仰付候 此勤稜ハ所々御横目寄合処ニも罷出 諸間御失費無之儀を専一申談候事
一、御吟味役勤方ハ 御蔵御銀所等之諸役所米銀跡式之請払日々差引いたし 或ハ月々之指引を堅正不正を相糺候事
一、江戸・大坂ニて之勤も大概同様之事 

総銀方
一、総銀所と申候て以前ハ太鼓御櫓 当時杣方詰所ニ有之候 惣銀支配頭平士二人 根取・物書等附属仕居申候処 寛政三年十月惣銀所被差止 御勘定所附属ニ被仰付候て 当時根取
  一人・物書八人ニて相勤候 宝暦六年前ハ惣銀奉行と申候御番方ゟ相勤申候 惣銀方取計筋は 御知行取・御擬作取 江戸・京・大坂定詰幷他所御知行取物成代等 八月ゟ翌七月迄
  一所務ニして節々御渡方切手差紙済出 御扶持方大豆地子証文達方調在方ゟ御算用取結 或ハ旅詰御渡方等凡て御格式を以取計申候

御切米方
一、御切米方之儀御切米所と申候て御奉行所中門西脇ニ有之候 御切米支配頭平士両人ニて御座候 根取以下附属も有之候処 寛政三年御切米所被差止 御勘定所附属被仰付候
  宝暦以前ハ御切米奉行と申候て御番方ゟ相勤申候 取計筋古格を以仕候 御中小姓以下御切米取御渡方専ら取計申候 尤品ニより御知行取・御擬作取之御渡方も取計候稜有之
  候 根取一人附属物書等有之候 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする