元禄十五年十二月十五日未明に吉良上野介屋敷に押し入り、見事主君の仇を取った赤穂浪士は泉岳寺に詣でたあと、それぞれの預け先に引き取られる。
家老・大石内蔵助等十七人を預かった細川家の丁寧な応対振りは、すぐさま江戸の町々に好感を以て流布された。
接待役を務めた堀内傳右衛門の 「覺書」から十五日の有様を追ってみよう。
(まえがき省略)
一、元禄十五年午の十二月十五日、月次 御登城被遊候處、於 御城浅野内匠頭様御家来之内、拾七人御預之旨被 仰渡、芝泉岳寺え御侍中請取に被遣候段、従 御城、藤崎作
右衛門上屋敷御使者に被参候、我等折節當番にて、町屋敷え罷出居申候、定て御人数之内にて可有之と存、直に同名平八方にて認等いたし、た直に罷越、十五日未の刻(午後
一時)前上屋敷に罷出候事
一、三宅藤兵衛・鎌田軍太夫・平野九郎右衛門・横山五郎太夫。堀内平八・匂坂平兵衛、右之衆中裏附上下、物頭・御小姓組迄は羽織袴着、芝御屋敷へ被参候、物頭皆共迄は羽織
裁付に而候事、左の人数
三宅藤兵衛 鎌田軍之助 平野九郎右衛門 横山五郎太夫 志方彌次右衛門 原田十次郎 牧七右衛門 須佐美九太夫 匂坂平兵衛
富島伊兵衛 堀内傳右衛門 林兵介 池永善兵衛 寺川助之丞 本庄喜助 吉田孫四郎 氏家平吉 澤庄兵衛 堀内五郎兵衛 竹田平太夫
石川源右衛門 田中隼之介 池部次郎助 横井儀右衛門 宇野彌右衛門 下村周伯 原田元潔 木村権右衛門 関彌右衛門 郡次太夫
堀内平八 野田小十郎 村井源兵衛 松浦儀右衛門 塚本藤右衛門 魚住惣右衛門 服部番右衛門
一、足軽百人余、篭十七挺、外ニ用心篭三挺、人数合七百五十四人と承り申候
一、御知行取不残馬にて、御屋敷より罷越被申候、芝御屋敷表御門前にて、芝御屋敷詰に出合申合せ、泉岳寺え参申筈之處に様子替り、仙石伯耆守様御屋敷にて受取り申筈に
成り、彼御屋敷愛宕下に参候、此方様御人数は愛宕下細川和泉守様御屋敷に参り、御門内には侍中斗入候て亥の刻(午後九時)過に伯耆守様御屋敷に何も参り候事、此方様
え之御預衆を一番に御渡被成候、三宅・鎌田・堀内三人御預り之面々受取下さるべき旨被仰渡候、則伯耆守様御列座にて被仰渡候、其外は御門外に居申候事
一、十七人之輩伯耆守様被仰渡候者、夫々に書付を御よみきかせ、内蔵之介は御側近く被召寄、十七人は細川越中守え御預被成候間左様に心得候哉、乗物にて被遣候儀、い
かゞ思召候とも、老人又は怪我人も有之、指向付添参申候ため旁乗物にて参り候へは、段々被為入御念御事忝とたひ/\何も被申候事
一、十七人之衆何も駕に乗り、請取被とは御門外に各夫々請取揃候て、御紋付の大挑灯二ツ宛、自分挑灯一ツ宛、駕一挺騎馬一人、歩御使番一人宛付、御使番不足分は歩御小
姓相勤、尤手負怪我人も有之駕を静に、細川和泉守様御門前より松平隠岐守様御屋敷前、愛宕横町に出、三島町筋より通り丁に出、芝伊皿子坂より目黒御門に入、役者之間之
御玄関より御廣間櫛形之次御間より二座敷に被居申候、其夜はいつれも、先一つに着座有之候、尤道筋静に参り御屋敷え落付は、丑の刻(午前二時)過に相成申候事
一、右之面々を御渡之刻、乗物之戸なと明申者も候はゞ、其通に仕候て不苦被思召候、怪我人も候間、道も静に参候様にとの事故、堀内傳右衛門と申者付添参候、何ぞ御用も候
歟、乗物戸なぞ明け申たく思召候はゞ、被仰聞候へと歩行之者へ申させ候
一、太守様早速御出被遊候、受取人数も其儘居申様にとの儀にて、其所に罷在候、扨十七人え御意之趣には、扨各今日之仕方新名に存候、是に大勢之侍共差置候にも不及事
何とやらんおこかましく候へ共、公義に對し差置候間、皆々左様に御心得何ぞ相應の用事承候得と、番之御家来共之方を御覧被遊、最早夜更候間、先早く料理を給被申候様
にとの仰にて、御入被遊候、いつれも忝奉存られ候體に見え候、夜更まて御待被遊、早速御對面被成候事、いつれも後々まて 有かたかり被申候事
一、其夜其儘御對面被遊候は太守様迄と承り、残三人御衆は以後に此方様御聞合被成御逢被成候事