5月の史談会では、4月につづき古川古松軒の「西遊雑記」を取り上げようと思っている。
熊本城の素晴らしさに驚嘆し、鳥瞰の熊本城図や加藤清正の墓所・本妙寺などを絵図に残すなどその才能振りに驚かされる。
豊後街道をすすみ阿蘇に至っているが、その道中の記述には厳しいものがある。民衆の生活ぶりや阿蘇神社の荒廃ぶりなどに触れているが、天保二年という全国共に天保の大飢饉といわれたまさにその真っ只中という背景があるにしても、なかなか辛辣である。
当時の豊後街道は大津から阿蘇の外輪に登っている。そして二重の峠あたりから赤水・内牧へ下り降りることに成る。
現在阿蘇大分へ至る国道57号線が高森方面へ分岐する所に阿蘇大橋があり、数鹿流(スガル)瀧が遠望できる。
その近くにまさに天保二年古松軒の旅では目に触れることはなかったが、熊本で初めての石造のアーチ橋数鹿流橋(流失 現・橋場橋)が懸けられた。
以降肥後の眼鏡橋といわれるアーチ橋は数多くつくられたが、皆「会所官銭」をあてて農民の力をもって作られてきた。
そういった民衆の底力を理解しながら、古松軒の辛辣な記述が阿蘇の地方の一面をながめたものだということを理解しなければならない。
熊本の石橋で世に知られる矢部の通潤橋なども、会所官銭と藩からの借入金によってつくられたが、借入金はその利子と共に事業費の46%に及んだとされるが、すべてが村民の負担になったとはいえこれらを完済するだけの経済力があったのである。
蓑田勝彦氏の論考「天保期 熊本藩農村の経済力--生産力は二百万石以上、貢租はその1/4--1」で示されたように、農民の余分が増しこのような大きな事業が民意によってなされたことに意義がある。それを後押しした郡方や、決裁した奉行等民政に傑出した能吏が存在した。
維新を待たずともこのような大業が成された事に大いに心致すべきである。