甲斐宗運についてお尋ねをいただいたので、手っ取り早く見れるようにと、近代デジタルライブラリーから宗運に関わる部分を取り出してご紹介する。
肥後文献叢書(四)、甲斐宗雲関係記事 コマ番号で(185)~(197)までを御覧いただきたい。
又、甲斐氏系図については
肥後文献叢書(三)、甲斐氏系図 コマ番号で(153)~(156) 甲斐宗運(親直)についてはコマ番号(155)である。
甲斐宗運についてお尋ねをいただいたので、手っ取り早く見れるようにと、近代デジタルライブラリーから宗運に関わる部分を取り出してご紹介する。
肥後文献叢書(四)、甲斐宗雲関係記事 コマ番号で(185)~(197)までを御覧いただきたい。
又、甲斐氏系図については
肥後文献叢書(三)、甲斐氏系図 コマ番号で(153)~(156) 甲斐宗運(親直)についてはコマ番号(155)である。
「大通連vs豪傑連」でご紹介した堀内(旧姓大槻)坤次には、若いころ川郎(かっぱ)に遭遇したとも思われる逸話が残されている。
詳細な日にちがしたためられてはいるものの、本当かいなと思わせる話ではある。
肥の熊本坪井天神町に大槻專助居住す、門前の川を坪井川と云、其二男同坤次、暮過比其邊を通りけるに、
童形の者立居けるに、度々詞を懸けるに不答、能々見れば怪敷物なれば、抜打に切付るに驚て川へ飛込様
子に見へけるに、折節小舟のありけるが、舟ばたを傳ひへさきに廻る躰なれば、出るを待て又切懸る、其時
水中に沈て轉動する事まやず、波を立川下に行様子にてさはがしき事半時計、其後は行方知らずなりけり、
坪井川の下廿町計を千場川と云、其所に高田九郎左衛門住ける、其嫡子角左衛門、未だ幼年なり、安永九
年庚子七月十八日、門前の川に游ぶ、折節水中に異なる物あり、猿の手の如し、怪で慶助と共に取て歸り、
父母に見せけるを、先軒につるし置けり、同八月三日の夜、其母の夢に川郎來り云ふ様、門前の榎の下に
穴を掘て得させ玉へと、夢心に答て云は、望の如くせば、必人を取て其穴に入る手だてなるべしと、川郎再云、
左にあらず、母又云、然らば人に害無らんことを誓へと、其時歌一首を詠じ、此歌を三遍となへば水難は無き
ぞ/\と度々云ふ、其聲甚高くして、目覺めぬ、鶏鳴頃なりけると、其歌は角左衛門直に認めしを納め置きぬ、
遥の後に坤次が怪物を切たる事を合せみるに、歌の辭にひつじのさると云は坤の字なるか、容貌の猿に似た
りとて、朋友も常にさるさると仇名し□るなり
坤
我命は未の申の手にかゝり、をはむとせしをうちをられけり 本書岡田氏蔵之