細川家十三代当主の韶邦公は天保六年生まれ初名・訓三郎、弘化二年護順と名乗る。嘉永元年訓三郎を六之助と改、護順と名乗る。嘉永二年将軍家に御目見、右京大夫慶順(ヨシユキ)と称す。万延元年25歳にして遺領相続、明治三年35歳で家督を弟護久に譲っている。
これは実学党による藩主排斥の動きがあったためだとされる。当然後ろに新政府の動きが見えたためである。
慶應四年四月二十三日、新政府をおもんばかって韶邦と改名した。
細川家系譜等を読むとその事蹟は「韶邦」の名前で書かれていることが多いが、その殆どは「慶順」時代のものである。
その御名は亡くなるまでの九年間に過ぎない。
明治四年六月には新築なった浅草の今戸邸に隠居するわけだが、五年六月六日明治天皇ご夫妻の御来臨の栄に浴している。これは韶邦夫人峯姫が一條左大臣忠香卿の養女(実は三條大納言實萬女)であり、皇后はその養妹にあたるという関係からである。
こういう関係からも韶邦の公武協調の考えが理解できる。
さて韶邦の 韶 の字が何とも理解できない。私の所蔵する漢和辞典では「読みや字義」に納得できるような解説が見えない。
「ウィクショナリー日本語版 - Wiktionary」で検索しても同様である。
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9F%B6
晩年は病の床に就いた。新しい名前に託した隠居時代の韶邦公の思いは如何なるものであったろうかと思うのである。その死は明治九年十月廿三日である。熊本の地が西南戦争によって蹂躙されることを知らずに逝かれたことは何よりであったかもしれない。