9年前の今頃 島津公の憂鬱 という一文を書いている。薩摩街道を北上した島津の殿様は、熊本城の新町御門から法華坂を上り、重臣の屋敷が立ち並ぶ二の丸に入っり、二の丸御門から新堀御門をでてようやく城内を抜け出すことに成る。徳川家定に嫁いだ篤姫も同様のルートで熊本城内を抜けて、御馬下の御茶屋で休憩を取り、熊本の美味しいスイカを食べている。
今日は史談会の例会、古川古松軒の「西遊雑記」を取り上げたが、ここでもまったく同様の事が書かれている。
つまり薩摩街道は熊本城内を通っていたわけだが、現代に至り豊前街道(薩摩街道)が国道三号線となると、さすがに城内は避けたものの、熊本城を右手に見ながら雄大な石垣の下を熊本市役所の前に出ていた。熊本市の硯川から熊本市浄行寺をむすぶ道路ができて、こちらが国道三号線となったのは昭和40年代の事である。半世紀ほど前の事だから、若い人たちは熊本城の真下を国道が通っていたなどとは思っても見ない。「うそ~」と云う話だが、江戸期にはまさしく御城の中を通っていたわけだから、「まじで?」ということになる。
通行中の薩摩公はさぞかし渋いお顔であったろう。