先に ■悪ごろ・村上平内 を書いた。今一人成田清兵衛の弟子に臼杵杢之助というあばれ者があり、村上平内とはいたって仲が悪かったという。
藩の重役もこれを聞き頭を痛めていたが、両家が縁組すれば少しは治まろうと平内の妹を杢之助に嫁がせた。
嫁いだ平内の妹成る人も気苦労の多いことであったろう。杢之助(鉄炮頭300石)は後には平内同様、理由は定かではないが禄を除せられている。
臼杵杢之助と云は、成田清兵衛の弟子にて、組打剣術二王身等を能せり、又村上平内と云は村上河内子なり
新免瓣助寺尾求馬三男なり弟子にて、又剣術を能せり、其比何れも名高きあばれ物にて、種々の噺甚多きこと
なり、其比は下帯組、二王組、いばら組とて、あばれ組三組あり、平内はいばら組の頭、杢之助は
二王組の頭也、互に争度々ありて、事出来ることを計て、大家衆の取扱にて、縁組を取結せたり、
杢之助が妹を平内が妻にす○家記には平内妹を杢之助に嫁すとあり是なるべし(殿云)既に婚禮す、其
日互に剣術の争有て、打合あり、杢之助庭に被下り、垣の強期を引抜てかまへたり、村上は樫木の
割木の三尺計なるを持て立合たり、杢之助眞向に振上げ、打んとする處を、村上かの割木にて、ち
よっとさしたりければ、垣を押破て隣屋敷に打出たりとなん、夫より杢之助は、剣術の師範を止
て、組打計師範せりとなん、其子も剣術を能せしが杢之助死後、師範に取立んと門弟中より致
せしか共、父の遺口なりとて、遂に師範をせざるとなり、さて村上は此上は成田に勝負せんと、翌
日成田が自宅へ行、昨日の様を語て、此上は御自分様と仕合申んと、拳を振て仕懸るに成田打笑ひ
御自分の剣術誰が右に出る者あらんや、臼杵が負たること尤なりとて、甚禰誉して、相氣の色見
えざりし故、村上氣を呑れて歸り、中々成田はならんと申されしととなり、是より村上臼杵が中能成
て、一つ組になる、臼杵は鑓も能せり、鑓と組打は村上負る、剣術には臼杵負ると、相互に咄合へ
り、又或時臼杵に、二王身を取て見せよ、則二王身を仕て見せければ、村上大に笑て云、二王身素
よりよし、然れども我より見れば、其用を不知、只石をすへにしにひとし、凡人は動を以貴ものなり
と云り、臼杵尤なりとて、その後は止たるとなり (随聞録)