津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■豊臣家絶ゆ

2015-05-08 13:05:25 | 歴史

 昨日は大阪城落城の日、今日は淀殿・秀頼母子がなくなり豊臣が絶えた。400年という節目を考えると感慨一入と云ったところではある。
大阪城では 大阪夏の陣400年 などというプロジェクトで賑わっているのだろう。

この後の豊国廟の扱いは誠に悲惨なものがあり、徳川家康以来のやり様もいささか度が過ぎている。明治維新後からは豊臣秀吉は再び英雄となった。
津田三郎著「秀吉・英雄伝説の軌跡」を読むと、江戸時代はまさに豊臣家受難の時代であったことが判る。
秀吉の墳墓の場所さえ定かではなく、明治三十年に至り4月13日、豊国山廟修築の起工式が執り行われ、工事の途中4月28日地中より経文が書かれた瓦が多数発見され、さらに地下2.4mのところから秀吉の遺体を納めた壷が発見されたという。
腕を組み胡坐姿がみとめられたが取り出す際の不手際で、遺骨は一瞬にバラバラになったという。一片/\を集めて絹の布に包み納められた。
300年回忌を前にしてのことであった。

                                    「秀吉公廟墓」の画像検索結果

豊国山廟の完成をみた300年祭では、阿弥陀ヶ峰は参拝者が陸続してごった返したといわれる。

くしくも豊臣家が絶えて400年の年、大阪は今「大阪都」問題で揺れている。その成否は予見しがたいが、徳川の江戸(東京)に対する豊臣の大坂というような意識はもうないのだろうか・・・・興味ある現代の戦である。


 

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■木造建築・宇土櫓

2015-05-08 11:41:39 | 徒然

 この写真は昭和46年熊本日々新聞社から発刊された、「熊本のかたち--歴史と風土」に所収された写真である。
熊本城は白黒写真の方が良く似合う気がする。立夏もすぎ、熊本城の楠の若葉が際立つ季節となってきた。 
 
                楠若葉はやくれなゐに炎ゆるなり 城下しばらく男の町なれば 

この歌は、皇居で行われる新年歌会始に召人となられた、熊本の歌人・故安永蕗子先生の歌で私の大好きな歌だが、熊本城には楠若葉がお似合いである。
GWも終わり人出も少なくなったころを見計らって、この宇土櫓に上ろうとこの写真を見て思った。。建築設計を生業としてきた私としては、木造の城郭建築の構造を確認できるこの宇土櫓を、元気なうちに再度ぜひ詳しく見ておきたいと思ったからである。
 

 

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■御船城

2015-05-08 06:35:00 | 歴史

    甲斐宗運についてまた振り返っているうちに、宗運の居城御船城について詳しい記述があった。

            益城郡石津之郡甘木庄御船之古城之城名を御船城と申候 彼城地を御船と申候由緒は大昔従大國
            日羅と申法師日本へ佛經を被渡候砌被乗渡候船之由に候 其ふね以後山と成居候を前々城に築き初
            め候由語傳候 就夫城名を御船城と云ひ町在々なとも御船と言ならはし候と語傳候 定て日羅法師之
            被渡候砌迄は御船只今之在々は海にてこそ有之候はんずれ 御船城之近邊の田地のさなげと云物に
            一艘二艘なとゝ云さげ名ども有之候 偖は船三艘も被渡候はん哉 然上は御船と三船と書ならはし
            可申事と存候 然れとも右に書出候 阿蘇殿前々御領知付ヶに御船五百四十町と書候而有之舊記に
            御船と書出候而有之候上は御船と書候儀勿論にて候 日羅之船之儀も紛有之間敷候は和漢合運圖年
            代記にも日羅之船肥後に着くと見へ候由或る仁被申候 殊に飯田山は日羅の開基にて日羅之被渡た
            る佛像など縁記共飯田山に有之候由に候 飯田山下の御船にて候へは船山城尤も候事

                                                  (肥後文献叢書第四巻 p362) 

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