南関町を経て福岡県に入るとすぐに旧柳川藩の北関に至る。延宝元年(1673)、前川勘右衛門と藤田助之進の娘との縁談話がもつれ、両者共御暇となった。
藤田助之進は御國を立ち退くべく出立したが、前川勘右衛門と前川一族、特に山名十左衛門らが助太刀して藤田一家を討ち取った。
いわゆる「北関事件」として有名だが、後年綱利が参勤の途中立ち寄り感激して書を山名十左衛門に呈したというのである。
その行いを「軽々しい」と評する識者もある。
元禄十一年(1698)戊寅三月、綱利公江戸(ママ・熊本)御發駕、始て南關御通行相成、御感不斜、御自筆にて
今日南關邊旅行、北關に至、先年其方儀、藤田父子令誅戮無比類働に候、
場所今見様に存候、無新邑村男女迄感心申候、天下静謐の時節、家老職に、
其方を持申候儀、世上者希有之事と存候、謹言
寅三月六日 越中綱利 御判
山名十左衛門殿 (肥後先哲偉蹟巻二・山名十左衛門項より)
山名十左衛門は細川幽齋の実弟・三渕好重を祖とし、重政--之直--之政--重澄(十左衛門)と続く名家の当主である。
前川勘右衛門は之直の弟・重則の嫡子で従兄弟の関係にあたる。(之政と重澄が兄弟)
藩主家や家老・松井家と深い血縁関係がある三渕家(山名・前川とも名乗る)が、藤田家から持ち込まれた結婚話に異を唱えた末に起きた不幸な事件である。
十左衛門自らが現場に出向き働き、解決をしなければならない、一族にとっては名誉を失いかねない一大事であった。
藤田氏を討ち取った後、その一族の仕返しを恐れた当の勘右衛門はあちこちに逃げ回っている。
そして逃亡先で自害をしている。一族の思惑の犠牲になったともいえる痛ましい最後であった。
事件から25年後、豊前街道を始めて参勤の旅をした綱利にとっては、共感し感慨を新たにする場所であったのだろう。
剛毅な気質であったという綱利公らしい一面が伺える。
(尚当ブログでは「北関始末實記・・その1」を初回として17回にわたりご紹介した。)