齋藤芝山(権之助)を紹介する「肥後先哲偉蹟」(巻二p196)に、タイトルにあるような言葉が出てくる。
熊本には「異風者」という言葉があるが、齋藤権之助をしてそういわんとしているように思える。
齋藤芝山は二百石、犬追物を興しその師範となった。川尻作事奉行・高橋町奉行等を勤めた。文化五年66歳で歿した。米良氏の出である。
齋藤殿起りの時分は御家中の風儀美々敷して、若き人も絹服を着し、すらつき歩く人多かりしかば、是を大通連と世に申習はし、
又齋藤殿は木綿服の垢付たるに藁草履など踏み、髪をも水にて結び、異風の體にて歩かれけるを豪傑連と申習はせしなり、さ
れば其手につきたる者、刀をも身をのみ能く研ぎ、上向をば成丈麁末に拵へ、柄は眞田打の絲にて、片手巻の上をかす染にて
塗り、鞘もしぼ皮、又だんしにてきせ、何も手拵にて濟したり、又大通連の長本は堀内坤次・堀部宇角などにて此黨甚盛なり、刀
脇差等に白ざめに黒絲、銀の打出、小尻長さ五六寸より七八寸及中にも長きは尺餘も有し由、豪傑連よりは大通連の人をどう
楽連と申、後はこれを略にし、くとう連と申せしなり、大通連よりは豪傑の風を気違連とも、ぎり/\連とも申せしなり、ぎり/\と
は、天頂のぎり/\の所に、水の一合もなきと申事なるべし、右の如く双方勢強き事なれば、左義長の時分も双方立別れ、當合
盛なりしに、初は騎射連の豪傑危く見えしが、後は大通連も有か無かに衰へ、我等生立の時分は絶てなく、又豪傑連とて、麁暴
の風もうすらぎ、能程の風俗なり、大通の風止み、奢を制し俗を變したる事、齋藤殿の大功今に其験多し、然れども大通連の内、
堀内坤次を始、其外力量の人多くありし由 伊藤権七逸信筆記
大通連と不名誉な呼び方をされた堀内坤次は大槻氏から養子に入った人。食禄二百石、穿鑿頭や奉行職を務めた。文化六年47歳で江戸で歿した。
服装の奢侈が強く規制された時代で、大通連も生きながらえることができなかったか。
遡って一族の堀内傳右衛門はその著「旦夕覺書」で、さかんに服装の奢侈に成らぬようにと子孫に対し諭しているのだが・・・・・・・
付け足し:
齋藤権之助室は山口仁九郎の三女、長女は平川丈太郎室、次女は実学党六人衆と云われた湯地丈右衛門に嫁いだ。
第四子が嫡男・清之丞、安場保和の姉・きわを娶った。