津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大通連 vs 豪傑連

2015-05-06 20:00:23 | 史料

 齋藤芝山(権之助)を紹介する「肥後先哲偉蹟」(巻二p196)に、タイトルにあるような言葉が出てくる。
熊本には「異風者」という言葉があるが、齋藤権之助をしてそういわんとしているように思える。
齋藤芝山は二百石、犬追物を興しその師範となった。川尻作事奉行・高橋町奉行等を勤めた。文化五年66歳で歿した。米良氏の出である。
 

       齋藤殿起りの時分は御家中の風儀美々敷して、若き人も絹服を着し、すらつき歩く人多かりしかば、是を大通連と世に申習はし、
       又齋藤殿は木綿服の垢付たるに藁草履など踏み、髪をも水にて結び、異風の體にて歩かれけるを豪傑連と申習はせしなり、さ
       れば其手につきたる者、刀をも身をのみ能く研ぎ、上向をば成丈麁末に拵へ、柄は眞田打の絲にて、片手巻の上をかす染にて
       塗り、鞘もしぼ皮、又だんしにてきせ、何も手拵にて濟したり、又大通連の長本は堀内坤次・堀部宇角などにて此黨甚盛なり、刀
       脇差等に白ざめに黒絲、銀の打出、小尻長さ五六寸より七八寸及中にも長きは尺餘も有し由、豪傑連よりは大通連の人をどう
       楽連と申、後はこれを略にし、くとう連と申せしなり、大通連よりは豪傑の風を気違連とも、ぎり/\連とも申せしなり、ぎり/\と
       は、天頂のぎり/\の所に、水の一合もなきと申事なるべし、右の如く双方勢強き事なれば、左義長の時分も双方立別れ、當合
       盛なりしに、初は騎射連の豪傑危く見えしが、後は大通連も有か無かに衰へ、我等生立の時分は絶てなく、又豪傑連とて、麁暴
       の風もうすらぎ、能程の風俗なり、大通の風止み、奢を制し俗を變したる事、齋藤殿の大功今に其験多し、然れども大通連の内、
       堀内坤次を始、其外力量の人多くありし由      伊藤権七逸信筆記

大通連と不名誉な呼び方をされた堀内坤次は大槻氏から養子に入った人。食禄二百石、穿鑿頭や奉行職を務めた。文化六年47歳で江戸で歿した。
服装の奢侈が強く規制された時代で、大通連も生きながらえることができなかったか。
遡って一族の堀内傳右衛門はその著「旦夕覺書」で、さかんに服装の奢侈に成らぬようにと子孫に対し諭しているのだが・・・・・・・

付け足し:
齋藤権之助室は山口仁九郎の三女、長女は平川丈太郎室、次女は実学党六人衆と云われた湯地丈右衛門に嫁いだ。
第四子が嫡男・清之丞、安場保和の姉・きわを娶った。 


 

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■良い話

2015-05-06 06:44:12 | 歴史

次の話はなかなかできた話だが、種々の記録にあらわれているから、本当の事であろう。
      須佐美素雄御中小姓頭を勤めし時、組の中村新助傳來の槍のさやより、三齋公御自筆の書出たり、
      子孫の有ん限は、二百石遣はすとの意なり、素雄盡力すれども輙く行れず、因て自身に下置れしお
      知行の内より二百石を中村に御遣はし成れ度、御先祖様の御詞を虚にすることあるべからずと云、
      是に於て遂に新に二百石を舊知として、中村に賜はられしとなん  土肥翁話 


ここに登場する中村家の初代は、細川幽齋公が将軍・義昭公と共に漂泊の時代、生まれたばかりの御子・後の忠興公の養育を託した中村新助と乳母であるその妻の事である。京の町家に隠れ住み数年を過ごしたとされる。乳母はそののち「大局」となった。
青龍寺城址図には中村屋敷という書き込みが見えるように、中村家は青龍寺以来の細川家根本家臣の一人である。

上の話は須佐美素雄が御中小姓頭をしていた頃からすると、齊茲公の時代の事と思われる。以下の記録が符合する。

実は六代・傳五に「寛保三年乱心ニ而自害、其時妻懐妊ニ而居候か、男子致出生候ニ付御中小姓召出、八人扶持拝領」という事件があった。
七代・九七郎(新助)には「寛政六年(1794)四月:中村新助、御中小姓ニ而上益城沼山津手永古閑村之内江在宅之処、御知行二百石被返下御番方被仰付在宅願之事」という記事が残るが、まさしくこのことであろうと思われる。


須佐美素雄は五代・九郎兵衛のこと、川尻奉行・御中小姓頭・御小姓頭等を勤め文化十三年隠居、文政三年享年五十五歳で没したが剛毅な気質の人であったと伝えられる。齊茲公に願い出て書付通り中村家は二百石拝領することに成るが、忠興公からすると九代目にあたる齊茲公は、そのような話は御存知ではなかったろうと思われる。しかしながら中村新助夫妻の命を懸けた養育で忠興公が在ることを願えると、当然の事かと思われる。

槍のさやから出たという書付は細川家家臣・中村(新助)氏に書いた記事のものか?
中村家については、他に残された記録が非常に興味深い。

     ・T家の借金
     ・肥後モッコスの元祖
     

 

 

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