津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お尋ねに応えて・・「高麗門の牢舎」について

2015-05-20 16:03:50 | 熊本

 ある方から高麗門町にあったという牢舎の場所その他についてのお尋ねがあった。

此の事についてはDr・T先生の「平成肥後国誌」に幕末の新町の正確な地図が掲載されている。
部分に「徒刑屋敷・牢舎」とある。現在の熊本市立一新小学校がある所である。
鎌田浩氏著「肥後藩の庶民事件禄」に、「熊本市中引き廻しのコース」が紹介されているが出発点である「高麗門」がまさにこの「牢舎」であろう。
武士と庶民では取扱いが全く違う。高麗門の牢舎におかれたのは庶民の犯罪者と考えて間違いなかろう。
又高麗門の勢屯には寛政八年(1796)まで処刑場もあったとされる。(平成肥後国誌・上p206松原町項)
引き廻しの対象者は当然死刑の者であるが、詳細についてはここで記すのはいささか憚られるので鎌田氏の著作をお読みいただきたい。
犯罪者は長六橋下河原又は井出の口で処刑場まで引き回されたが、そのルートは牢舎から新町御門から法華坂をへて二の丸に入り、二の丸御門から新堀・京町口をへて瀬戸坂を下り、坪井本通りへ出て上通り・下通り・新鍛冶屋町・唐人町・細工町から石塘をへて下河原へ至った。
井出の口の場合はさらにそれから足を延ばしたことに成る。
現在これらの町々は熊本市の賑やかな通りである。
怖いもの見たさで群衆が押し掛けたという。 

犯罪のありようは江戸期も現代もあまり変わる物ではないが、重賢公の時代に刑罰制度が改められ、いわゆる「御刑法草書」を生み当時日本一の近代的なものであったというが、死刑と云う悲しい現実は現代においても無くならないでいる。 

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■家康公より松井康之二男吉松を御返被成候

2015-05-20 09:24:10 | 史料

文禄三年三月の事として、綿考輯録は次のように記している。
「家康公より松井康之二男吉松を御返被成候、其故は吉松ハ家康公可被召仕候間、成長仕候上、差上候は康之身上程ニは御取立可被下旨、蒙上意居申候処、去年八月嫡子松井与八郎興之果候而、吉松より外男子無之候ニ付、当三月家康公伏見江被成御越候上、康之より奉頼願之通被仰付候、依之忠興君より御一字を被下松井新太郎興長と改申候」 

吉松(後の松井興長)が何歳の頃のことだか分らないが、父康之と徳川家康の間に、吉松を家康の直臣にすることが約束されていた。文禄二年兄興之は朝鮮(文禄の役)で疵を負い、病の床につき帰国したが、周囲の願いも空しく肥前名護屋の地で他界した(18歳)。父康之は吉松を継嗣とするべく家康に願い出ている。時に吉松は11歳。
康之之身上程ニは・・という表現が面白いが、大名にでも取り立てようと考えていたのだろうか。興味深い。 

秀吉からは十二万石で大名に取立てるという話を康之は辞退している。
後年、秀次の謀叛(?)事件に連座したとして、忠興は死罪に至らんとした折り、康之の奔走により家康の協力を得て事無きに至った。
康之の人物の大きさがうかがい知れる逸話がいろいろある。 

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