ある方から高麗門町にあったという牢舎の場所その他についてのお尋ねがあった。
此の事についてはDr・T先生の「平成肥後国誌」に幕末の新町の正確な地図が掲載されている。
□部分に「徒刑屋敷・牢舎」とある。現在の熊本市立一新小学校がある所である。
鎌田浩氏著「肥後藩の庶民事件禄」に、「熊本市中引き廻しのコース」が紹介されているが出発点である「高麗門」がまさにこの「牢舎」であろう。
武士と庶民では取扱いが全く違う。高麗門の牢舎におかれたのは庶民の犯罪者と考えて間違いなかろう。
又高麗門の勢屯には寛政八年(1796)まで処刑場もあったとされる。(平成肥後国誌・上p206松原町項)
引き廻しの対象者は当然死刑の者であるが、詳細についてはここで記すのはいささか憚られるので鎌田氏の著作をお読みいただきたい。
犯罪者は長六橋下河原又は井出の口で処刑場まで引き回されたが、そのルートは牢舎から新町御門から法華坂をへて二の丸に入り、二の丸御門から新堀・京町口をへて瀬戸坂を下り、坪井本通りへ出て上通り・下通り・新鍛冶屋町・唐人町・細工町から石塘をへて下河原へ至った。
井出の口の場合はさらにそれから足を延ばしたことに成る。現在これらの町々は熊本市の賑やかな通りである。
怖いもの見たさで群衆が押し掛けたという。
犯罪のありようは江戸期も現代もあまり変わる物ではないが、重賢公の時代に刑罰制度が改められ、いわゆる「御刑法草書」を生み当時日本一の近代的なものであったというが、死刑と云う悲しい現実は現代においても無くならないでいる。