内容 : 戦乱の世であると同時に、さまざまな芸能・芸道が花開いた「日本らしさの始発」とも言える時代、いかなる日本語が読まれ、書かれ、話されていたのか。武士が戦勝を祈願して行なった連歌、漢文で書かれた公家の日記、当時の言葉と文化を映し出す辞書『節用集』、発音などの実態を知ることができるキリシタン文献、天下人・秀吉の書状…古代語から近代語への過渡期、多様な可能性に満ちた濃密な時代のなかで変わりゆく日本語のすがたを多面的に描く。
目次 : 序章 五百年前の日本語を概観する(武家・禅林・公家/ 中世語の時代 ほか)/ 第1章 漢文で書かれていた公家の日記(漢文で日記を記す/ 日本語を中国語風に書く ほか)/ 第2章 『節用集』から見えてくる室町時代(見出し項目となっている動物/ 見出し項目となっている人名 ほか)/ 第3章 宣教師の時代(ローマ字本からわかること/ 『日葡辞書』からわかること ほか)/ 第4章 豊臣秀吉のリテラシー(上杉謙信の書いた「いろは」/ 撥音・長音をどう書くか ほか)/ 終章 室町時代を環状彷徨する(秀吉と細川幽斎/ 秀吉と天正遣欧使節)
【著者紹介】
今野真二 : 1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻
御厚誼いただいているS様のブログ「こじょちゃんの戯言」に、水前寺の能楽堂にある八代松井家の家紋のクローズアップ写真があった。
随分ながく訪ねていないから、このような立派な巴瓦があった事さえしらなかった。家紋は金色に輝いているが金箔が押されているのだろうか?
この家紋の正式な名称を私は知らない。八代市のサイトをのぞいてみると「三つ笹紋」などと書かれている。
家紋帳をみると、「丸に九枚笹」紋(竹中半兵衛の家紋)によくにているがこれとて正解ではない。
丸に竹の節と思われるものが三か所描かれているから、さしずめ「竹の節丸に九枚笹」紋とでもいうべきか?
竹の絶えることのない再生や、節を「よ」と呼び「世」「代」に通ずるとして長く栄えるようにと尊ばれたものか・・・・
いずれにしても答えは松井家に御聞きするしかないようだ。
付け足し:
水前寺の能楽堂があるあたりは、私の小学校五・六年生の比の格好の遊び場であった。
夏になるとすぐわきにあったプールから、直径三尺(?)ばかりの排水溝から加瀬川へ泳ぎくだり、水前寺公園から張り出していた大榎木の大きな幹から飛び込んだりして、終日を過ごしたものだ。S様のブログのよると、能楽堂は昭和40年に焼失したと書かれている。ちょうど50年まえのことである。
松井家から移築されたということを知る人がどのくらい居られるのか、金色に輝く巴瓦を仰いでもそれでも中々わかるまい。
先に「韶邦公の韶の字」を書いたら、「徒然なかはなし」で取り上げていただき、こちらでは韶邦公の弟・承昭公にも触れておられた。
韶邦公は五兄弟の二番目だが長兄・慶前は廿三歳で亡くなったため韶邦が父・齊護の遺跡を継いだ。
五人兄弟は夫々異腹である。保守派であった韶邦は、実学党の藩主排斥の動きをみて35歳で心ならずも隠居している。
男子が五人あったがそれぞれ夭折している。無念の想いがあっただろう。弟・護久が跡を継いだ。
細川護久・津軽承昭、長岡護美の三人は大変仲が良かったように思われる。
藩主護久にかわり、護美の活躍はまざましく京都においては「肥後の牛若丸」と称えられた。
護美は喜連川家に養子に出されたことがあったが、これをきらって出奔したというから中々のきかん坊であったのだろう。
津軽承昭にたいし、新政府について行動するように諭している。房総沖で肥後藩士が大勢亡くなったハーマン号の座礁沈没事件は、津軽藩からの要請によって出兵した。
それぞれに痛恨の想いであったろうと思われる。
護久の子孫が現在の細川家の流れである。津軽承昭の子孫は、血のつながりはないが常陸宮華子さまに繋がっている。
細川家と喜連川家・津軽家の縁は宇土細川家でも見て取れる。喜連川家には七代藩主・立礼の弟孝応の孫孝常が入っているし、津軽家には十二代・行真の子行雅が養子となった。その娘・富美子が池田宣政夫人である。嫡子が昭和天皇の四女・池田厚子(元 順宮厚子内親王)の夫・池田隆政氏である。
津軽家は近衛家と深い係わりがあるが、行真の二男・高範が毛利家に養子となったがその娘が久子(黒田長和夫人)、千代子(近衛文麿夫人)、泰子(近衛秀麿夫人)であり、近衛文麿・千代子夫妻の娘・温子さまが細川護貞にとつがれ、細川護煕様・近衛忠様御二人の御子を為された。
深い因縁を感じさせる。