津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■享保十四年・藪の内火事

2015-06-09 07:11:30 | 歴史
 「雑花錦語集」(巻三十四)に享保十四年四月廿八日のいわゆる藪の内火事の事が書かれている。午ノ上刻(11時)に出火した火事は二千五百八十軒の家屋敷を燃やし尽くして申ノ下刻(17時)に鎮火した。そのうち知行取屋敷、御中小姓御用屋敷の数が千三百余軒とある。被災者の救護や復旧が大変であったろうと推察される。500人程の知行取の名前が記されているが、その中にわが家のご先祖の名前がある。今一人同姓久左衛門の名前があるが、初めて知る名前で興味深い。先祖附などでは窺い知れぬ情報が得られて面白い。

火元は手取・薮内の御台所方・塙善左衛門の屋敷からとあるが、塙氏の名前は侍帳では覗えない。何らかの処分があったことは当然だろう。母方の縁類に「塙氏」が有ったが、関係が気になってきた。

 御台所方は現在のホテルキャッスルあたりに屋敷が密集している。いわゆる手取・藪の内である。この日は南風であったらしく坪井方面に燃え広がった。
焼失した範囲はお寺の場所を考えるとおおよその察しが付く。
宗岳寺・東岸寺・宗厳寺・流長院・壽昌寺・浄国寺・順恩寺・真光寺・常永寺などが焼失している。
よくよく記録をみると火は京町台に登ったらしく、愛染院・專念寺・金剛寺・佛厳寺・向䑓寺・浄永寺・西方寺(我が家の菩提寺)等も焼失している。町人町を含め出京町構まで燃え広がり、京町一帯が被災している。京町台は藪の内や坪井界隈からすると20メートルほどの高台であるが、猛火の炎が舞い上がり京町へ駆け上ったのであろう。
その他、飛び火して飽田郡牧崎村の沼田勘解由の下屋敷が焼失したという。
岩立や釈将寺下まで類焼しているが、牧崎までは数百メートルの距離がある。飛び火の恐ろしさが伺える。
幸い御城には類は及んでいないが、火の子は立ち上った事であろう。そして古京町あたりや、本妙寺田畑あたりはやじ馬でごった返したであろう。
貴重な記録である。 

コメント
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