石光真清が生まれた本山の屋敷は、齊茲公が隠居の後に建てられた本山御殿の跡地である。御屋敷そのものは後に二の丸に移された。
濱町様(齊茲公)がこの地に屋敷を建てることを指示されたのは、文政二年七月の事である。奉行職を離れていた小山門喜が復職し、御殿新築の作事係りを担当させられた。九月十六日斧初、十二月十一日棟上げ、文政三年三月二十四日落成した。
四月十四日に御国入、そのまま本山御殿に入られた。
八月十九日には濱町様が白川で漁を見物の為、網漁の制限区域の達が発せられた。
濱町様次第ニ被為重御歳ニも有之、別て御保養筋御専用之御砌ニ被為在候處、本山御殿別て暑寒厳く、御保養被為成間敷と太守様より追々御轉居之
儀被遊御願、御所柄之儀段々御吟味相成候内、右之御様子長岡内膳殿承知被仕、若彼方屋敷御用ニも御座候ハヽ差上被申度段内意有之、其段達御
内聴候處、幸所柄も宜候ニ付右屋敷被召上、本山御屋形を古京町え御引直被仰付候、此段知せ置可申旨従江戸被仰付越候條、奉得其意、觸支配方
へも可被達候、以上
(文政七年)三月十九日 奉行所
このように本山御殿が濱町様御保養のためと称して古京町へ移される旨の触れが出るのが文政七年九月の事である。
その間本山御殿では濱町様が愛してやまなかった耇姫が誕生している。文政六年二月十四日のことだが、この慶事に先立ちこの年より五年を遡る犯罪者の恩赦を発している。 本山御殿が存在したのはわずか四年余の事である。
この間濱町様耇姫様が移築の期間どこで過ごされたのかは定かではない。
濱町様二丸御屋形え來ル六日被遊御移徏筈候、依之右御屋形廻り東辻番より南樟木坂下迄、下馬下乗可被致候、御屋形下田畑は御見掛ニても下馬
下乗ニ不及候、尤家来末々迄も堅可被申付候、此段觸支配方えも可被達候、以上
(文政七年)六月二日 奉行所
耇姫様は同九年十二月廿三日二の丸御館で四歳で亡くなった。現在泰勝寺には父・齊茲公に寄り添うように耇姫のお墓がある。