雨の合間をぬって朝から自転車で外出、歩道から車道へ段差を降りたときどうやらパンクをしたらしい。
これには参ってしまった。数件の自転車屋さんの場所を頭に描きながら、たどるように押して行くが朝早くであったためどこも開いていない。
約7キロを左ひざをかばいながら、とうとう2時間かけて帰宅する羽目になってしまった。
帰りつくと両足の脛の部分が攣ったような状態になり、これが何とも痛い。奥方の使い残しの湿布薬をはって唯今小康状態。
未だ新しい自転車の思いがけないアクシデント、とんだ散歩と相成った。
兼見卿記を読んでいての新たな発見、
天正十八年十二月廿六日 甲午、長岡与一郎息女(お長)隣國但馬守(前野長康)子息(景定)へ祝言、今夜被罷向云々
たったこれだけの事だが細川家記では伺われない記事である。お長の生年ははっきりしないが、小説「細川ガラシアの娘・お長」の作者は第一子だとしている。根拠が判らないが何とか知りたいところである。そして結婚も天正十九年四月二十三日としている。
綿考輯録でも生年については触れられていない。お長に関する記事は以下の如くである。
(慶長八年)九月廿九日、前野出雲守後室忠興君御女御名お長安昌院殿御卒去、法号月心妙光
考ニ一書、妙光を妙覚、慶長八年を九年、九月を八月、御名お長をお市なとある皆誤なり、御碑面を拝し候ニ安昌院殿心月妙光大姉、慶長八年九月
廿九日と有、但八月と云事は近年盛光寺より願之筋有之、由来記を御役所ニ書出候ニ先住誤て八月と調出候由、当住之物語也寛政十二庚申也、御名由
来記ニもお長と有之、お市と云事ハなし、当時八代安昌院に御位牌有、此寺ハ元ト盛光寺の隠居所なりしニ、安昌院ハ元来西光寺と云、三齋君の御
愛妾小上(コノウエ)といへる女の法名を西光院法樹栄林と云、此菩提の為元和年中中津に一寺建立西光寺と被号、右女の弟良運乗誉という僧開祖也、
夫より四世の僧三齋君を慕ふて八代に來り西光寺建立、安昌院殿殿御位牌も初ハ此所ニ在、後ニ盛光寺と改也、浄土宗筑後善同寺末也