津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■62年目鎮魂の日

2015-06-26 09:40:45 | 熊本

 朝から風がうなり雨が横なぐりに降っている。昼頃からは大雨の予想が出ている。今日は多くの犠牲者が出た昭和28年の大水害の鎮魂の日である。

62年前の私は小学校六年生、雨の中をいつものように登校した。当時私は区域外の出水校区から大江小学校に通っていた。
片道7キロほどの距離がある。雨が激しくなったお昼過ぎ、全員下校の指示が出た。
喜び勇んで帰途に就いたのだが、夕刻に成ると思いがけない洪水となり水かさが見る見るうちに上がって鴨居の高さまでつかり、我が家は水没状態になった。
命からがら近くのお寺に避難した。翌日家に帰ると、ちょうど真向いのS家は流失しており、三四軒の家は修復が不可能な状態で傾いている。
更地になってしまったS家の、ただ竹を差し込んだだけの突き井戸からきれいな水がこんこんとわき出ていた光景が今でも目に浮かんでくる。
我家も背後に流木が山とかさなっていた。跡片づけが大変だったろうと思うがこれはあまり記憶がない。

大江小学校同窓17名が亡くなり10数名が行方不明である。校庭の中央にある大きな榎(?)の下で熱い夏の日に行われた慰霊の式典も忘れられない。
白川も河川改修が進み、あのような被害はもうないと思うが・・・・水は恐ろしい。
この大水害がトラウマとなって現在は標高50mほどの所に住んでいる。

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■朝鮮通信使と細川家

2015-06-26 07:40:59 | 史料

 昨日の■松寿庵先生 第148講に関連して・・・・
 ウィキペディアにある「朝鮮通信使」の記事と細川家記(綿考輯録)とでは若干の違いがある。
それは家記にある江戸期第一回(慶長十二年)の来朝を、綿考輯録では慶長十年としていることである。編者の小野武次郎も首をかしげている。

慶長十年(十二年?)乙巳二月、家康公於伏見朝鮮使ニ御対面、但去年入洛いたし候へとも、当春御所様御上洛御行粧等御見せ可被成との事ニ而
被留置候、今度幣使之来朝ハ将軍宣下を賀し奉り、書簡を以種々の産物を献上、先年召捕れたる朝鮮人を返し給はり候ハヽ、永く高恩を忘れす、御
代々幣使を呈し隣好を結ひ可申旨ニ付、将軍家御許容あり、過半御返し被成候、忠興君・加藤清正等の生捕之内ニハ恩恵に懐き、直ニ日本居住を
願者も有之候、武蔵守立行方ニモ渡辺藤兵衛・滝本八左衛門と云者、元ト朝鮮人なれ共其身之望に依て、忠興君江申上直ニ召仕候

  渡辺ハ高麗より来る時十二歳名不知、滝本ハ十歳計り名を〆ソウシと云滝本八左衛門と改居候、又南条元宅手ニ生虜候李宗閑と申者も日本ニ残居、後
  年豊前に罷越、忠利君御懇意ニ而度々御前へ被召出、其子慶宅と申者八歳成を御もらひ被成、高本之苗字・定紋をも被下候、後ニ御知行被為拝
  領、医師ニ被仰付、今の高本敬蔵祖也、慶蔵本知弐百石御足高三百石、学校(時習館)教授職ニ而着座ニ被仰付候 

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