慶長九年(1604)忠興は煩い覚悟のほどがあって三男忠利をもって嗣子となす。翌十年には証人として二男興秋を江戸へ差遣わそうとするが、思いが
けず興秋は京都で出奔、家督問題が影響していることは当然であろう。忠利が家督するのは元和七年(1621)正月七日のことである。
一、同夏ニ至、御積痛差重なり御太切に御煩ニ付、忠利君を御家督に被成度旨御願之通被仰蒙候、是より先御
介病として忠利君暇取り、豊前へ御下向被成候、又秀忠公より岡田太郎右衛門を御使として御容体を
お尋ね、松井康之江被下八月十三日之御書
越州所労之儀太方之様ニ相聞候処、以之外之由無心元候、然は内記被相越候間、右之趣為可申入岡
田太郎右衛門差越候、度々養生候様ニ其方心遣専要ニ候、猶口上ニ相含候也
一本閏八月とあり、又十二日又廿三日とも
八月十三日 秀忠御 書判
松井佐渡守殿
其後秀忠公より御飛脚被差立、御容体御尋被成候節之御書
尚々、所労之様子承度候て飛脚を差越候
所労如何候哉、承度候而以飛脚申候、定而其地内記も可為参着候、久々ニ而参会可為御満足令察候、
将又こゝもと珍敷事も無之候、将軍も此地御着之事ニ候、猶重而可申候、恐々謹言
九月十三日 秀忠 御判
豊前宰相殿
盛芳院淨勝京より御呼下被成候、御使沢村大学同道ニて下着、御薬御服用被成御本復なり、其上耆婆万
病円御相応被成候、此以後ハ土用ハ専ことに為御保養、必御薬御服用被成候、扨御病気御平癒ニ付而奇
瑞有之候由、今年より宇佐宮御再興之御思召立御座候也