津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松寿庵先生 第148講

2015-06-25 18:01:00 | 史料

                                  朝鮮通信使来朝図

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■櫨方門今昔

2015-06-25 17:27:14 | 史料

 櫨方門はかっては現・加藤神社にあった。いわゆる櫨方の役所があったのだが、それ以前は質部屋などが置かれたこともあった。
昭和29年加藤神社敷地内にあった櫨方門が半壊したため、復旧に向けて調査が行われ32年には馬具櫓前に移転修復された。
そして翌33年に現在の位置に動かされている。貴重な記録が公開されているのでご紹介する。

                           熊本城櫨方門・建物調査報告書 

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■相聟

2015-06-25 10:11:47 | 史料

  小沢町にある西福寺には、宜記公の側室・際(鳥井氏・喜和=映心院)と二人の御子のお墓が三つ並んでいる。

またその前には齊護公の側室で護久公の生母・興顕院(深水氏・田鶴)と、護久公の側室で護成・嘉壽(細川興生室)・宜(伯爵・松平直亮室)・志津(阿蘇惟孝室、後離婚)などの生母・慈雲院(水俣氏・縫)のお墓が向かい合っている。
お二人とも水俣の惣庄屋深水氏の出である。藩主(当主)の生母であっても、側室の取り扱いは歴然としており細川家の墓所に祀られることはない。

田鶴様は深水家十代頼経の次女で加藤傳之進尭久の養女となった。縫は深水家十二代頼寛の三女である。

処で細川家の茶頭古田家の七代宗保の奥方(伊志)は深水家十二代頼寛女とされる。ある史料には三女とあるが縫様も三女とあり、どちらが正解か現況判らない。
つまりは、護成公と古田宗保は深水家を通じての相聟と云うことに成る。 

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