士中知行代々相續之事 大躰當
國之高に應し 古代之定有之候處
中古より我等に及ふ迄 新知加録等も
総而世禄に申付来候付 當國不相(應)
之高に至り 将来勤労之者有之候とも
賞すへき禄乏く 数世背前代之
本意候 依之慶安二年以前之知行は
舊故之家ニ付無相違相續せしめ 右
以後之新知加録は代々相續之高を
斟酌し可申付候 尤子孫抜群之勤
労によつてハ 旧故之家に准し或は
子孫之材能によつてハ 強に世減す
へからす 新知加録之儀ニ付而は近年
申渡候趣も有之候条 何も存候ため申
聞置もの也
宝暦六年閏十二月 御印
これにより慶安三年時新知の家については次のように改められた。
慶安三年以降新知の家(旧知の家は対象外)
5,500石~4,500石 500石減
4,400石~3,400石 400石減
3,300石~2,200石 300石減
2,200石~1,200石 200石減
1,100石~ 600石 100石減
500石~ 150石 50石減
100石新知 御擬作 という風に各家の家禄が減らされた。
慶安三年というボーダーラインは、「慶安年間を以て治乱の境界」とし、旧知の家は「元亀天正以来矢石を冒し、干戈を踏み、死生の間を馳突して君主を擁護し、或いは武勲抜群の誉ありしものゝ子孫」であるとして一線を引いている。
「宝暦四年此ヨリ減候知行・60,094石程、同28,770石程、右同蔵米擬作取・30,610石程」とある。減知約12万石、重賢の宝暦の改革の第一歩である。