先のブログで綱利公代側近が政務に関与してきたことを書いた。寛文後期あたりからとされるから、綱利の四十代後半のころである。
史料によると、柏原新左衛門・有吉市郎兵衛・大木織部・木村半平・續団右衛門・坂崎清左衛門などの人物が挙げられている。
■柏原新左衛門・定治(道慶)
(1)御側物頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
(2)千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(3)人持衆 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
(4)人持衆并組外衆 三千五百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
延宝四年一月(小姓頭)~元禄六年十一月 旅家老(城代トモ)
元禄六年十一月(城代)~元禄十年七月(致仕) 家老
細川綱利公御書出(天和三年)
柏原道慶 名は定治、新左衛門と称し、致仕して後道慶と改む。細川藩に仕へ、使番頭、
小姓頭等を勤め、後城代となり家老職に進む。食禄三千五百石。
宝永四年正月五日没す。歳八十四。墓は立田口久本寺。
■有吉市郎兵衛重時(養子・有吉英貴甥 雅楽 実・富田平十郎)
(1)御小児性衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
(2)千石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・雅楽
(3)長岡監物組 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
実福島家牢人富田与三兵衛重冬三男富田平十郎・母英貴姉
寛永十三年九月児小姓召出され知行五百石、光尚代加増五百石
綱利代加増千石、都合二千石 城代 元禄四年七月隠居、号随身
元禄十五年五月十四日没 室・松井興長養女かつ(実坂崎盛方女)
■大木織部兼近(舎人・隼人・夕岸)
(1)人持衆併組迯衆 五千五百五十七石
(二百五十石・大木弥一右衛門、二百五十石・大木七左衛門分与) (御侍帳・元禄五年比カ)
寛文五年十月児小姓、延宝二年十月新地千五百石、同四年家督都合五千五百石
家老脇、家老職、宝永七年九月致仕 隠居料百五十人扶持
享保二年七月二十六日歿・六十八才(肥後藩主要系図--以下同)
■木村半平豊持(養子 実・宇治代官上林某子、半平甥 後・夫馬)
着座、用人、家老脇、追々加増三千石、家老職 享保六年九月致仕・主馬と改
隠居料百五十人扶持 寛保三年十二月二十七日歿・八十三歳
元禄十年六月~宝永四年九月 用人
宝永四年九月~正徳二年一月 中老
正徳二年一月(家老脇)~享保六年九月(致仕)家老
■續団右衛門
(1)志水久馬之助組・七人扶持廿九石 (寛文四年六月・御侍帳)
(2)人持衆并組外衆 二千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
■坂崎清左衛門成政 (養子 実・岡田修理二男 清助 源太夫 内膳 栖山)
(1)側小姓・御扈従役歟 七百石 (於豊前小倉御侍帳)・・内膳
(2)御児小姓并御伽衆共 七百石 (肥後御入国宿割帳)・・内膳正
(3)御詰衆 三千六十六石五斗九升 (真源院様御代御侍名附)・・兵庫
(4)長岡帯刀組 三千六拾六石余 (寛文四年六月・御侍帳)・・清左衛門
若年の時秀吉の人質、豊前にて忠利に召出され四百石、追々加増千六十六石、児小姓
養父没後跡目拝領都合三千石余 綱利代加増千石・備頭、家老職
天和元年六月致仕、天和二年三月に十五日歿