忠興夫人ガラシャの切支丹入信は高山右近の影響だとする説がある。色々な小説でも此の説をもとに書かれているものが多い。
そういう意味では細川家とのかかわりが深かったことが伺える。
慶長十九年三月改宗しようとしない罪によって右近はマニラに追放される。松寿庵先生・第154講に有るように、右近は異郷の地で亡くなっている。
別れに際し右近(南坊等伯)が忠興に送った「訣別状」ともいわれる書状が細川家に残されている。
日本を去る寂しさと、キリスト教信者としての信仰に生きる強さが伺える書状である。
近日出舟仕候
仍此呈一軸致進上候
誠誰ニカト存候志耳
帰ラシト思ヘハ兼テ
梓弓ナキ数ニイル
名ヲソ留ル
彼ハ向戦場命墜
名ヲ天下ニ挙 是ハ
南海ニ趣 命懸天名ヲ流
如何六十年之苦
忽散申候 此中之御礼ハ
中々申上候/\
恐惶敬白
南坊
九月十日 等伯 花押
羽越中様
参る人々御中