三十三 従城内夜討に出る事
付手柄僉義の事
一、有夜風雨烈敷節城中より塩田口え夜討に出申候、夜討の頭ハ杉
本次郎右衛門と申者人数引連出たり、竹束火をば付候得共、寄
手何れも強防火ヲ打消申候ニ付、早々城内え引取申候、此時寄
手のうちにて日下部与助鉄炮頭也一番に進ミ出鑓を合せ手疵を負申
候、相続て坂川忠兵衛鉄炮頭也・伊藤新五右衛門・佐久間角助・井
村彦右衛門・田井中兵助、何れも能相働敵を城中へ追込申候、右
の兵助ハ手負申候、右の輩え清正よりかん(感)状給りたるよし也、
古蒲生飛騨守氏郷、有(或)時夜討に被逢手柄有之しかども恥とす、
又先年大坂にて蜂須賀阿波守至鎮夜討に被逢候所、従両御所様
淡路国并御感状被下候、家中の輩手に合候者共も御かん状拝領
仕候、此趣御家伝えに見へたり、三齋公御意の趣也、清正も此心
を以褒美在之と見へたり、
一、右夜討の時出合て能働たる者共、清正前に呼出し直に其場の様
子聞給いけるに付、証拠をも委細に申達候、其内に田中兵助右
の肩に鑓疵負けるに、見付給て清正のおもふハ、兵助手疵ハ不
審有之、敵をば左りにこそ可請に、左候ハヽ左りに疵可有之所
右に有之事いかヽとせんきありければ、兵助申上候様ハ、私ぎ
左り構の鑓にて御座候ニ付、敵を右に請申候ニ付手疵も右に負
申候由達候、常々竹刀にて鑓の稽古仕候節も左り鑓のよし、
鑓の師匠・相弟子共も余多有陳(旨)にて罷在、此旨申達けるにつき、
兵助左り鑓の証拠正しく罷成り、迯疵にてハ無之向よりの疵に
相定る、かん(感)状ヲ給りたるよし、ケ様の事ハたれも可見知事な
れとも、事急成時節早クとかめ給ふ事愚意の難及事とも也
三十四 敵の忍ひの者生捕の事
付清正心を付給ふ事・八代え間者被指越事
計策文認様の事
一、有夜丑ノ刻時分に、竹束の際に何者か隠そろ/\と忍ひ来るを、
仕寄番の足軽聞付組伏セ搦捕見けれハ、四十才計の男丸ごシニ
て何の道具も不持して下人也レハ何者也、いか様の用事有之こヽにハ
来るぞと問けれハ、かの者申様、其ぎハ宇土町に居しか商人な
るに、不計籠城セしに堪忍難仕、依之今宵忍ひて城より落来と
計云て、此外の義ハ何を尋にも一言も不云、いか様怪敷者成故
本陳へ召連て行件の通申達ケれば、清正被申候ハ、此者自然杖
抔は突来らさるやと尋給ふ、足軽とも申候ハ、今存知当り候、
組伏候節何やら投捨たる、からりと為(鳴)申様ニ覚申候と云て、初
搦取たる所に行て見れば、竹の杖有之しを見出して持来り、清
正其杖を取わらせて見給へハ杖の中に通の在之、取出指出申候、
清正披見有候へハ、宇土の城代小西隼人方ゟ八代の城迄小西美
作方の状の文成る、いつの何時人数を出し後詰に有之由、其時
分に城内よりも切て可出候、一左右相備との事也、清正の云、
是ハ幸成ぎ出来候迚、不斜喜悦有りて、其状を元のことくよく
封し、地下人の内才覚なる者にて八代のぎ能存たる者を尋出し、
妻子を人質に取おき、金銀の(を)与へ、此ぎ仕応せ候ハヽ、又々重て
ほふびを可取旨申聞せ、従城中の飛脚の趣に仕立、八代え被指
越ける所に、宇土の城代隼人判形に紛無之に依て、従八代の返
事についても為後詰出勢可申由にて日限ヲ定たる返事を持来故、
彼者には約束のことく増ほふびを下さる為有之由也、
一、右城より出たる者早速成敗為被申付とも申候、又籠者申付お
き和談已後一命ヲ為被助とも申也
一、古法に、かくのことき謀の使相勤者、敵味方未勝負不定内ハ他
え為不洩、此者陳外え堅不出指おき事の由也、尤其躰にも寄へ
き事也
一、ケ様の使は能侍の勤(働)き也、浅き手行の様子に候へば為得利事多
き義也、古語に云、謀は可深して不可恐と申伝候、古駿河今川
義元と尾州織田信長と数度雖有合戦、義元の家老笠寺新左衛門
と云もの謀勇かね備たるものニ殊能書たり、是信長公の勝り少
シ、依之信長公謀書を認、森三左衛門と云武巧の侍を商人ニ仕
立駿河え被指遣候処、此謀相調ぎ義元笠寺を被誅候、其後義元
も為信長公亡給ふ也
一、古戦国の砌ハ、元城と枝城との間を敵に被取切たるせつ、互ニ
書通せし時其用相達申候様ニ、若書状ヲ敵大集(奪カ)披見しても曽て
不被察不認様の古法有之、楠正成・武田・信長専用ひ給ひ候事
也、是を計策又は認様と云也、又慶長ノ比丹後田辺御城え関東
より忠興公御書度々被遣候、御使い何れも侍分のもの被遣候、
敵に改られ候時御書の隠様被仰付候、遠国トヤ敵中を通り罷越
候事にて難義なる事共也、ケ様の時に文認様入申度儀ニて候、
文の隠し様を右認様に加申度候、右宇土・八代のことく也、両
城代ケ様の拠事ヲ不知故其事顕なし耳ニ非ス、敵の謀に落人た
る事也