三十六 南条元宅夜討に可出覚悟の事
付古法に夜討に可出時節考様の様
一、清正ゟ八代え人数被指遣候義城内へ相知れ申候ニ付、南条此節
を窺い夜討にて出由隼人え強く進め申候得共、いか成所存ニ候
や、隼人無用と制せし故打止ぬ、元宅歯咀をして怒しとなり、
古法に夜討にて出時節考様種々有之、何れにても敵陳を窺義也、
右は寄手ゟ押勢指遣少の安堵の隙を元宅考たる者也、誠に図に
当れり、残念成事共也、云々
三十七 濃州於関ヶ原合戦 家康公御勝利事
付石田・小西以下御誅罰之事
右の義清正ゟ城内へ被相通知談有之侯得共不相調事
小西墨付指下侯説の事
一、慶長庚子年九月十五日、濃州於関ヶ原(自関ヶ原宇土迄海陸弐百廿里廿七丁カ)石田と合
戦 家康公御勝利、石田・小西以下敗軍、其後両人ともに被生
捕御誅罰被仰付、天下一時に治り
家康公御代と罷成誠に恐悦の事共也、
小西行長は江州伊吹山に続たる粕川と云谷に隠れある事を、関
ヶ原の住人相川の林蔵主という禅僧に被見付て、是より注進し、
竹中丹後守内伊籐次郎右衛門・後藤又兵衛に被生捕、九月十八
日に江州軍(草か)津の宿ニて家康公に奉見と也、石田三成は江州井口
村の茶園畑に隠れいたるを古橋村の田夫見付て、前知たるもの
にて我家に隠し置しを、岡崎城主田中兵部太輔其辺を捜したる
に、田夫か妻心替りして田中内田中伝左衛門ハ知せけれバ生捕
之、九月十九日江州大津宿にて内府公へ奉見と申也、安国寺も
此節被生捕侯也、三成・行長・安国寺三人於京都渡大路、十月
朔日六条河原にて首を被刎、三条河原ニ獄門に懸りたると也、
石田首ヲ中に小西・安国寺首は左右に有之、何も供饗に載た
るとなり、此三人ハ第一の大将、逆心の張本と見たり、三人の
伝記書面外不具侯、小西ハ世俗に元来泉州境(堺)の木薬屋にて為在
之由、両人のつま子有無の事不及侯、安国寺は清増(僧か)の由也、
一、右の趣清正え従 家康公御飛札到来有之ニ付、右の段清正より
城内被申通、此上ハ可令和談侯、追付城を明渡侯様ニ、左候ハ
ヽ籠城の輩ハ不残一命を助け、先規のとふり無相違可指(扶か)持よし
被申遣侯へ共、城内えハ何方よりも愼成、其告無之ニ付清正
の謀にて被申を孤疑をなし、和談不相調空ク光陰を送しと也、
有説に云、右の節小西方より宇土留守居の者の方に、城を相渡
何れも一命可助旨申遣侯様ニと家康公被仰付侯、もよりニ行長
方ゟ書状指下侯由、小西墨付を城内の者とも見届侯、い後和談
相済侯とも申伝侯也、
三十八 行長の家頼戦場ゟ宇土へ走下り城内え相通侯義両説の事
付重て和談相済城を明渡侯事
一、然ル所ニ行長の鉄炮頭芳野新五・同役加藤内匠、関ヶ原の戦場
より宇土え十月廿日に走下り侯に(九月十五日合戦の日ゟ宇土下着迄の日数三十六日也、又小西首を被相刎侯ハ十月
朔日此日よりハ日数廿日也、道法の積ハ前に有之なり)、清正を免しテ城内へ被入侯所に、両士卒
の実ヲ様子語申侯ニ付、籠城の輩力を落し最前通に扱相済、同
廿三日に城ヲ明渡せし也、九月十九日小(大の月なり)なる矢合、廿九
日籠城して十月廿三日に城相渡申侯、此日数凡三十五日なり、
続撰清正記に云、右の通最前清正より関ヶ原合戦に小西敗北の
義と被申遣侯、和談の取扱有之謀ておもい同心無之所に、小西
身近召仕侯小姓落人と成宇土へ下り忍侯て罷在しを、能見知り
たる者有之て召捕たり、清正この者を城の塀際に被指遣、関ヶ
原表の義此者の口を可聞届よし被申遣けれバ、城中よりも二、
三人出向い(敵味方用所有之、暫鉄炮止メ如此、其事を通時の無事と云也)合せんの次第、小西成行
のぎ具に聞届て、扨ハ関原合戦負になる、小西どの滅亡疑なく
扨て不及是非次第也、此上は城を清正に可相渡侯、乍去り宇土・
八代・矢部の城に籠たる士卒、落人となり方々へり(離)散して、つ
ま子迄見苦敷目を見たるにおゐてハ一命助たる験無之と、不残
被抱置侯て、摂津守に罷在侯時の身上に不違本知下行於有之ハ、
右三城代とも致切腹城可相渡侯、於無之左ハ城を枕にして討死
すへきむね、城代隼人方ゟ申越たり、清正返事に申越侯段、尤
の事也、三ヶ所の城代切腹有之城を無異儀於相渡ハ、家中の輩
不残令扶持侯事少も相違有之間敷由返答有之ければ、城内請取
給ひ、小西家中の輩不残約束の通被相抱侯由也、是一説なり、
此次ニ又異説有之、可見合也、又云、和談約束の通相違有之間
敷由にて清正神文等可有之事に侯処、其沙汰無之也、
又云、籠城の輩一味し内通の沙汰も無之能持こたへたり、武士
のよき手本也、小西滅亡無之バ中々手間を取可申侯、無理に責
申ハ人数余程積申可為難義侯、武巧の勇士罷在侯故也、早主人
亡給ふ上ハ士卒の為に侯間、何方へ可敵様も無之間、和談尤な
り、
云、三十にこれ有ことく清正強ク責給ふハ、早ク落城可申手段
も可有之侯へ共、有之様ニ態と及延引侯由也、扨城を責に遅速
の時節考有之事也、清正依良将て此趣通達侯と見へたり、古法
に敵城を責るに不損人をして城を抜を良将とす、専工夫可有之
事也、
三十九 和談相済城内の輩外へ替節定之事
一、和談巳後清正の定、籠城の輩侍下々に(至る)迄城を出侯時、壱人ニ
付荷物其(壱か)荷迄可持出侯、内に入侯物は何にても不及改侯、此外ハ
無用のよし被相触侯ニ付、其屋に相守侯下門口え鼠戸を結ひ、
其口より壱人宛出し相改堅固に記申侯也、
四十 籠城の輩清正へ相抱給ふ事
一、宇土籠城の輩并八代・矢部の人数共に、兼々約束の通小身侍
に至迄不残一命を被助、先知の通少も無相違下行有之清正被相抱
侯也、於熊本宇土小路と云所有之ハ、右小身の輩被指置侯ニ付
如此唱来侯由也、
四十一 宇土の城代小西隼人切腹の義両説有之事
一、宇土の城代小西隼人義三十八に有之通切腹可仕侯間、残ル者共
一命御助ケ被下侯様ニと申達侯ヘハ、清正公一命相助可相抱よ
しニ付、隼人義十月廿三日熊本へ罷出可申迚、海道筋ハ軍勢未
入ミちたるに付、引違加悦飛騨(守侯カ)専ニ下門口ゟ鑑子口へ出、夫
より栗崎・松山・岩熊の様(脇カ)に廻り、大渡の川を打渡、川尻釈迦
堂(大慈寺の事也)を通り熊本新町壱丁目に着けれハ、誰も相図無之、宿
不相定侯ニ付町中に筵を敷罷在侯処に、漸く其日酉ノ刻時分に、
壱丁の町乙名大膳(是ハ本座能太夫なり)と申者のま(方)へ宿相定り内へ入申侯、
其夜下川又左衛門(物奉行役身上三千石)方ゟ使指越申侯口上の趣は、永々の
籠城嘸可相困窮、明朝茶の湯可仕侯間入来待入侯由申越侯ニ付、
翌廿四日朝又左衛門方へ参侯得ハ、広間え通シ三方に盃小脇差
ヲ組合せ指出申侯ニ付、即刻切腹の由、
一、有説に云、右の通又左衛門方へ隼人罷成越侯処に、料理出シ茶菓
子の後隼人縁の手水を遣ふ所を、給仕せし小姓に兼て申含おき、
手掛(拭カ)を持行傍に寄様に首を討たる共申侯也、
四十二 小西飛騨追出事
一、小西飛騨ハ前ニに書記候通名高者ニ候といゑとも、耶蘇テイウスの宗門玄(甚)
玄尊崇申候、此宗門其時分迄ハ従 公義強ク御禁法も無之故、
併此段清正等心に不相叶、依之飛騨義落城已後扶助無之肥後国
を退出給ふ、行方不知罷成候由、行長ハ切支丹宗門尊ニ付、常々
家中・領内共に専邪宗多相在之由、荒々可記候也、
四十三 八代・矢部両所の城代ハ薩州へ立退たる事
一、宇土の元城扱に罷成城を明渡たるニ付、枝城の八代・矢部も扱
相済城を明渡申候、尤両城の諸士宇土の者同前に一命ヲ相助ケ
可被相抱のよしニ付、何れも熊本へ罷出申候、併八代の城代小
西美作・矢部の城代諸越弥平次両人ハ、熊本へ罷出ぎ致辞退薩
州へ立退申候、両人熊本へ罷出候ハヽ隼人同前にて為切腹の処、
厚分別にて死をのがれたるとの沙汰の由なり、前にも如有之嶋
津家と小西家とハ石田と一味にて相味方たるによりて、右両人
薩州へ立退たると見へたり
四十四 宇土・八代・矢部城番の事
付清正開陳の事
一、宇土の城番には加藤与左衛門・並河金左衛門被指置候也
一、有説に云、宇土本丸に中川寿林、二の郭に田寺久太夫被指置候
由、組(但)是ははるか已後の事歟
一、八代の城番には吉村吉(橘)左衛門・堤権右衛門被指置候
一、矢部の城番不相知候也
清正は宇土にて諸の仕置に隙入、月 日熊本へ開陳有之なり