津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■落選しました・・・

2016-05-04 11:23:58 | 熊本地震

 住宅が全壊・半壊した人を対象とした熊本市営住宅への入居に用意された住宅は250戸、これに対し申し込んだ人3,949人で平均倍率は15.8倍、中央区では90倍、私が申し込んだ東区は20倍を越えていたようだ。
その入居抽選会が昨日行われたが、大荒れの天気で会場には出かけず結果も判らずにいた。
今日その結果が熊本市のサイトで公表されたが・・・見事に落選、さてどうしましょう。

転居先が見つからないまま引越しの準備、図書館でコピーを採った資料などはすべて処分することにした。
書籍類も大量処分、ブックオフに持っていくのも面倒だから資源ゴミで出すことにする。
処分の為に一つ一つ眺めていると、いろいろな思い出が蘇り、思わず目頭があつくなる。
今はただ生きることが先決だと言う想いに占領されている。

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■宇土軍記 肥後・下 (三十五)-2

2016-05-04 05:43:26 | 史料

一、又云、従古国守城時築に余多の習在之、先我は国中に居て四方
   の境に枝城を構え、敵不意に働入事難叶様に押置時に、是にて
   国堅固ニ成也、古法ニ云、堅固ニ三段有之、国堅固、所堅固、又云、天険、地険、古歌に人ハ城人ハ石垣人ハ堀、ナサケハミカタアクハテキナリ
   境内(目カ)の城に不構して元城へ責入敵は余程の大敵歟、内通の味方
   を頼ミを中人するか是ハ大変の義也、先境目の城を責すして不
   叶義也、其節ハ元城の本大将後詰をして為可得勝利也、併城堅
   固にして其上に能く不持は後詰は難叶事也、依之城取と合戦は
   車の両輪・鳥の両翼のことくといゑり、故伝授数多有之事なり、
   然に宇土の城の趣を考るに、肥後国古ハ不知中ハ国主壱人に
   て被領候と見へたり、依之熊本・宇土一所に付これ一味也、去
   ニ付宇土・熊本との間に何の気遣も無之故城も無之、通用自
   由成事也、其後一国を清正・行長に下され両守護ニなれり、両
   所共に秀吉公の家臣にて相味方故何の用心等敷事も無之義也、
   従宇土ハ薩摩境に八代の城、日向境に矢部の城を築、薩州・向
   州を敵にしたる様子也、兼て味方と頼たる清正ハ此時敵となり
   宇土え取詰給ふ故、枝城の八代より元城の宇土へ誘詰めの沙汰
   と罷成候、是逆なり、敵となられし清正の居城熊本へハ従宇土
   行程四里、宇土の枝城八代えハ宇土より七里、是熊本への道にあの
   ハ大形倍せり、従宇土矢部へハ十六里、是は熊本の道に対して
   ハ四双倍也、味方の道にとしたる薩摩ハ遠くて此節の助となら
   す、敵味方の道の遠近是又逆なり、行長於在城は中々清正可為
   難義処に、留守にて城を守たる計を専一ニせり、夫故に双方に
   て難防く城も弱シ、清正は地戦にて人数大勢にて強し、是又逆
   也、不戦以前ニ廟算の考清正勝利の数多し、敵支配・味方支配
   と云るハ古法に逢さる、是秘伝也、能知る者は栄え考不可然者
   は危事ともなり、
   古戦国の砌、家康公ハ信長公と御味方、武田信玄とは御敵対也、
   又武州松山の城主大田三楽・上野箕輪城主永野信濃両人共に越
   後の上杉謙信と一味、間に利根川の大河在之、北条氏康信(ママ)公の
   とハ敵(対カ)討也、是にて可智口伝在候也
一、又云、宇土の城へ八代・薩摩より後詰可在之かと清正の備へ定
   可有之事也、此趣不相見候、惣して大勢小勢の心得有之、大勢
   の方は勢大成ニ付出て合戦す、大将の願如此なり、又敵城を責
   には定法有之、城を責は後詰の押へ勢・旗本しまり備・其外逝(遊カ)
   軍・夜軍を厭備抔と云事有之、殊遊軍を用る法在之、心得可置
   事共也
一、八代の内長野久兵衛申え伝に云、清正宇土の城を責に従八代後詰
   可有之歟と為押の由、九月日従清正人数を被指越候、頭吉村
   左近人数弐千五百引卒したり、又八代の城代小西美作、清正宇
   土え取詰給ふ義承り、早速下知して足軽頭長野久兵衛身上三百石
   竹原久八両人何等も足軽十人宛預申候、高橋庄三郎・喜余久・半助三人の身上不相知候
   其勢雑兵五百計にて宇土へ為後詰出張せしに、九月日の暁八代
   郡小川の内吉本町ニて両勢不計出合たり、未夜の内の事成れと
   も互敵と見定たり、熊本勢敵の旗を見て少も不可引懸れ/\と
   云なから退たり、此時熊本勢は町の内に並居たり、八代勢は町
   より外に居て、此よしを見て両足軽頭申合謀の次第ハ、敵大勢
   也、此儘向ハヽ可為負、人数を二ツに分、半分ハ道筋を可懸、
   半分ハ町の東裏廻り町中え出、熊本勢の左りえ懸り、向・脇両
   方より懸り候ハヽ得勝利評定を極、一手は向より懸り勝負を始
   メ、一手は一丁計町裏を廻り町を打破寄手の左り中え掛、鉄炮
   ヲ放かけ、両方ゟ掛/\打立けれバ、熊本勢不相叶乱立豊福
   迄敗軍したり、其間壱里ノ所悉追討に逢たり、古法云、合戦に迫合の筋必迫局を定る事也
    是に又合図有之、其遠近ハ敵に寄、所ニ寄事定に法数多有之、味方討方の何れも其勝全也
   八代勢はこヽにて近なり、勝て由(甲)の緒をしめ早々八代え開陳せ
   しと也、久兵衛此時太刀打せしに、刀にて敵の甲を切わり首
   を取申候、此刀をかうへわりと名付秘蔵せしと也、
   夫より熊本勢は宇土え引取たり、清正右ノ段聞給ひ立腹有之、
   左近早々切腹被申付候、右ハ八代勢得勝利、清正方負軍の沙汰
   の趣なり
   右迫合場小川は在郷町故唯一筋也、町の間に川有之、此川郡境
   也、川北宇土の方ハ益城郡小川ト云、川の南八代の方は八代郡
   吉本町と云也、小路軍の事此巻十九に在之て見合也、小川より
   豊福え一里、豊福より松ばしえ一里、松橋より宇土え壱里〆三
   里なり、 
   右の一通は長野申伝の趣也、和談已後長野清正に仕罷在候、忠
   広遠流の後浪人致シ肥前長崎ニて病死ス、男子壱人有之、父無
   之ニ付母ト一所に流牢申候処、母ハ肥後宇土に縁者有之罷越し、
   忰は故有者の筋候けれハとて、宇土家中原伝右衛門 御昇頭身上三百石
   云者子無之ニ付養子として原伝六と申候、伝右衛門義ハ先年肥
   前有馬城乗の節、立孝公於御前御昇を能下知仕付御加恩等被下
   候、其後におゐて伝右衛門義病死仕ニ付、已後伝六義行孝公歩
   行士に被召仕候処、於江戸不慮に相果申候、其子伝七は有孝之
   御代に御歩行の組別に被召出候也 

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