津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■非常用給水袋

2016-05-03 10:57:51 | 熊本地震

 地震発生後近くの小学校に給水車がやってきた。広島市の水道局からであったが、水そのものは健軍水源からのまさに熊本の水である。
近郊の人たちは思い/\にペットボトルやかんや鍋などをもって集まってくる。そのうち3ℓ 入る給水ポリ袋が提供されるようになった。
ジッパーがついていて持ち運びも楽になった。一週間ほどすると6ℓ の非常用給水水袋が提供されるようになった。
3ℓ の袋は回収されたのか我が家には大坂水道局の袋が一つだけ残された。

6ℓ の水袋の方は現在APの水場から2階の我が家までの運搬用となった。
両手に1袋づつ抱えて2・3度往復するのだが、これを1日2・3度するのだから、ポパイみたいになるのではと思ったりする。

              糟谷地区水道組合
              東京都水道局
              日本水道協会山口県支部
              日南市上下水道課
              佐賀県東部水道企業団
              鳥栖市水道部      の6ℓ 袋9枚が未だ我が家では活躍している。

              「非常用給水バッグ」の画像検索結果

              今では1枚だけとなったが、大阪市水道局・広島市水道局の3ℓ 袋も大活躍した。

報道によると熊本全域給水可能な状況に成って、各所での給水業務は2日を以って終了したらしい。
遠路熊本までお出でいただき、給水作業に関わられた上記の地域の関係者の皆様に深甚なるお礼を申し上げたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■婆さんは川へ洗濯へ・・・

2016-05-03 08:18:38 | 熊本地震

 私が住んでいるAPは高架水槽が壊れたので水が出ない。大きな構造亀裂が走ったRC造・4階建て32戸のAPの家主殿は、どうやら解体を決断したらしく修繕はしないという。
7月いっぱいに転去して欲しいという。その間は家賃はいらないというのだが、転居するにも転居先が見つからないのであせるばかりである。
そんな中一週間ほど前、APの外に仮設の水場が出来た。トイレ等の必要な水はそこから6ℓ の給水ポリ袋にいくつも運ぶ事に成る。
洗濯はまとめて娘の所に出かけて乾燥までしてもらっている。少々のことは奥方が「婆さんは川へ洗濯へ・・・」などと言いながら、水場へ出かけていく。
これには思わず笑いだしてしまうし、その陽気さにほっとさせられる。そんな奥方は「ひまはいや」と言いながらちょこまかと動き回っている。
私以上につかれていると思うのだが・・・・・今も奥方は「川へ洗濯に」出かけている。

追記:今朝も6時すぎ、震度3の突き上げるような地震で目が覚めた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■宇土軍記 肥後・下 (三十五)-1

2016-05-03 06:20:30 | 史料

      三十五 宇土城え従八代後詰有之ニ付清正より押勢被指遣事
          付於小川迫(攻)合之事・相田六左衛門働之事
            従薩州宇土・八代え加勢之沙汰之事
            小川監物敵陳に紛るヽ事
            小西と嶋津家と一味断之事・敵城を責古法之事
            右於小川迫合のぎ長野久兵衛申伝之事

一、清正の云、従八代宇土え後詰の儀返事有之、誠に天の与にる所
   也、敵に逢たる次第ニて可馳向由にて、急きに押勢を以指遣、
   大頭ニハ吉利左近吉左衛門子ナリ・相田六左衛門異本には権六と有を武者奉行に
   被指添、其勢二千五百と也、従八代惣頭不相知候、味方小川町
   にて従宇土三里自八代四里ニシテ七里不計一戦に及しに、八代勢は従宇土是迄出
   向とり、不思寄不意の事故熊本勢に被迫立悉ク敗軍せしと也、
   一戦の儀不貝(具)也
一、此節、右の相田ハいかヽ成故にか、其場に少シ遅参して手に不
   合事を口惜敷悔居たる所に、敵の内にて能武者殿して退候処を
   見付、言葉ヲかけ、互馬の上ニて二ツ三ツ太刀打して引組馬よ
   りおち、相田彼武者を組伏せ首を取たり、清正働を賞しかん状
   を給り名を内匠と被改也
一、亦此節、熊本勢の内に小川監物と云者未軍に不列若武者成か、
   敵味方入乱れ一戦して両方其間二丁計颯と引取たる、此節清正
   の家中の番指物ハ何れも白キ陳の切さきの颯成たる故、監物人々
   の指物に目を付見けれは、件の指物さしたる武者は無之、其外
   の武者ハ色々の指物成ニ付、あや敷おもひ能々見れは皆敵也、
   扨は入乱たる節見損て敵方退来り、さらは一件の手立して見ん
   とおもひ心をしつめ云様ハ、引退たる敵余り間は有之間敷、お
   つ懸て壱人成とも討取たる社能働たるべし、いさ/\各は追懸
   給ふまじくかと云捨て其儘馬を乗出したり、其跡にて八代勢の
   各心付候ハ、今の出立の武者は敵にて有りけるに謀られぬる、
   遁すなとひしめき遁て追かけぬれと、其内に程延て無難遁れ味
   方の陳へかけ込、不思義に一命助けるとなり
一、合戦の場にてハ方国ノ目附有之事也、今年濃州関ヶ原の合戦の
   時、井伊兵部少輔直政、松平薩摩守忠吉え於戦場相待被申上
   趣これ也、能心得可置事也、右忠よし公は直政の婿、尾張大納
   言義直の御舎兄、御早世にて御子孫無之御家断絶也
一、右小川迫合に八代勢を引出シ清正得勝利給ふ事は、敵の謀を以
   味方の策に用る事、是皆良将のなす事偏に此迫合に有之と也
一、清正記に云、一説には薩摩より本郷能登と云者歩立武者三百人
   計即(召)具し、八代・宇土の者共え力を添んとて先八代え罷越、夫
   より小川へ出張して町屋を防火し自由を振舞由告来り候に付て、
   清正より吉村吉左衛門・庄林隼人二組を小川おもてえ被指向小
   川に着陳有之、迫合有之たり、一戦の儀不具也
一、此時石田権六、本郷能登か乗たる馬の太腹を鉄炮お以打通すに、
   依之て能登馬より下立て退所を権六二タ刀ニて切留る、大将討
   死の上ハ手の者敗北して八代の方え退行を、追討に雑兵三十
   八人討取、宇土の陳え開陳と云也
一、有説に云、小西領内の事は之に委細如有之、自分の領地二十四
   万石・御預り地弐万五千石ノ廿六万五千石也、大渡の川を限と
   して北分清正領内、南の分は行長領内と申伝候、大渡より寸摩
   境の関所佐敷迄十七里、佐敷より切通と申所迄七里、是境目也、
   行程合二十四里と承及里、此間ハ皆小西領分の由、然ハ右海道
   筋従宇土小川迄ハ三里有之所にて候へハ、小川ハ小西領分の唯
   中にてハ無之か、敵地にてこそ自由を振廻よし承及候、夫さへ
   時に寄事也、放火の事は十九に記之置也、扨小西領分は寸摩勢
   の為にも味方地にハ無之か、其味方地に来りて町屋を焼たて自
   由を振廻と有之、ふしん、
一、亦続撰清正記に云、吉村橘右衛門・庄林隼人二組小川え押向と
   有、是は相違也、吉村ハ三番備の大将仕石瀬の責口を受取、

   を攻させ仕寄を付させ組下の者に下知をしていたる数(故カ)に、小川
   の押へに行者にてなし、庄林一番備の武者奉行約致加藤百助か
   組下にて居たる故、隼人組と云者ハ無之由、又薩摩より八代え
   加勢の義ハ不及承者多しなり、
一、右両説共に清正ゟ勝利の沙汰耳也、外に八代勝利の此次に有之、
   可見合也
一、有説に云、嶋津家より八代の加勢に成ぎを考ふるに、嶋津家ハ
   石田と一味して此節嶋津とのハ関東ニ御入候也、元より小西ハ
   猶以石田方也、留守は薩州の味方を根城と頼たる事成へし、行
   長と清正は朝鮮陳以来常々挨拶悪敷ぎは世に知る所也、及乱国
   時は両将可為敵討、其上同国境目為隣ニ付境の論可有之、殊三
   ケ年以前戌ノ年秀吉公御他界の砌、城州於伏見 家康公と石田
   と出入有之御不和に被為成、清正が東方、小西は石田と敵味方
   と色顕れたり、依之宇土の城え清正取詰給ふと余り不思ぎ成事
   にても有之間敷候、宇土堀内にも武功の者罷在ぎニ候へハ、此
   より覚悟可有之事ニ候へ共、右ニも如記小西九ヶ年に及ひ宇土
   に下向無之、此段宇土ハ小西居城にて元城也、是さへ留守故人数
   少途中迄出張も難成、間者も不用意と相見へ申候ニ付清正旗本
   の有所も不知、漸石瀬口迄出向ふたる也、扨又八代の味方より
   宇土早速後詰可有之筈ニ候へは、是は枝城にて猶以人数少かる
   べし、其上行程七里に及候へハ、小勢にて城を放行事ハケ様の
   節敵にいか成謀可在之も難計、跡先の気遣にて危軍と成事故罷
   成間敷候、依之領内の通用不任心底候故、薩州は大国の義ニ付
   従八代薩摩の味方へ加勢の義申遣、本郷能登八代者来り宇土へ
   後詰すへきととて見合罷有候節、従宇土後詰の義申来るニ付、能
   登八代ゟ出陳候処小川にて一戦為在之者歟
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする