津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■■御侍帳・家紋から考える(13)

2019-09-25 11:44:47 | 家紋

                    

大嶋久左衛門は「大嶋五郎八家」の五代目久左衛門か?。大嶋家については「細川藩家臣略歴」には見当たらない。
 家紋は「丸に柏紋」である。
大村久兵衛は「大村半弥家(南東15-16)」の6代目・右馬次(久兵衛)「御番方・杤木内匠組 二百石」か。
 家紋は「六角に大文字紋」及び「五つ瓜?」
大野小平太は「大野傳作家(南東55-4)」の6代目である。
 家紋は「?」今一つは「丸に三階松」である。
大野要助は「大野要八家(南東55-5)」の4代目か。
 家紋は「四角に桔梗」紋?
大石十郎左衛門は「大石(ススム)家(南東13-11)」の7代目、寛政四年九月~寛政五年十二月 阿蘇南郷郡代を勤めた。
 家紋は「?」今一つは「組合せ角に浜洲紋」
大矢野門兵衛は本家「大矢野十郎家(南東55-9)」の 6代目・太源太(門兵衛)か?
 大矢野次郎八は(分家)「大矢野次郎八家(南東55-10)」において、代々次郎八を名乗る人が多く何代目であるかは不明。
 大矢野家は元の天草五人衆の一家である。(武家家伝ー大矢野氏)その祖は渡来人東漢氏だと伝えられる。
 家紋の「帆掛け船」は名和氏に由来するものと思われる。大矢野家は「蒙古襲来絵詞」を伝えてきた家柄だが、これは名和氏女が
   大矢野家に嫁いだ折にもたらされたものだと伝えられる。
 本紋は「五七の桐紋」だともいう。
大竹甚兵衛は「大竹甚平家(南東13-12)」の6代目か。
 家紋は文字紋であろうが名称を知りえない。ご教示いただければ幸いである。
大宮運之進は「大宮勘也家(南東55-8)」の6代目で、時習館句讀師を勤めた。
 家紋は「丸に隅切り角」?
大洞源太郎は「大洞長十郎家(南東55-2)」の6代目である。
 家紋は二重丸に二重の線で十文字?が描かれているが、正式名称は知りえない。ご教示いただければ幸いである。
大洞五右衛門は「大洞典太家(南東55-3)」の5代目で長十郎家の分家筋である。家紋は本家に同じ。
大河原次郎九郎は「大河原次郎九郎家(南東13-8)」においては、次郎九郎を7・8・9代が襲名しており人物の特定ができない。
 中小姓頭や奉行・番頭などを代々務めた。家紋は「下り藤」である。
大河原三太夫は大河原家の分家筋「大河原実次家(南東13-9)」の5代目、三大夫(儀右衛門)、この家は代々儀右衛門を名乗っている。
 家紋は本家に同じ。
大橋伊右衛門は「細川家家臣略歴」では名前が見いだせない。この「家紋付侍帳」にのみ登場している。
 家紋は「隅切り角に違い丁子」
大里右金吾は「大里角次家(南東15-15)」の5代目である。その祖は阿蘇大宮司家である。豊臣秀吉により阿蘇惟光が12歳にて殺され
 阿蘇家没落後、年を経て惟光の弟が惟善が加藤清正の助力を得て阿蘇家を再興が許された。その惟善の弟・惟直が大里家の初代である。
 故に家紋は阿蘇家の「違い鷹の羽紋」である。阿蘇家に継嗣がないときには大里家から養子が入り、阿蘇家を継承している。
大里八太夫は大里家の分家「大里八郎家(南東15-23)」の2代・文太(八大夫・八左衛門)か?
 家紋は「丸に違い鷹の羽紋」である。
大田左平次は「太田九十郎家(南東14-9)」の7代・安大夫(左平次信友)か?
 太田家の祖は旧・加藤家臣、初代小十郎・正直は細川忠利に殉死したことで知られる。
 家紋は「左巴紋」である。
太田七郎助は「太田善内家(南東14-8)」の5代目である。上記太田家とは血縁ではない。
 家紋は線引き「武田菱」紋である。

                                            家紋の名称其の他、情報がありましたらご教示ください。

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■元和拾年 萬覚書(29)

2019-09-25 06:09:34 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)十九日

         |   
         |一、十九日 甚左衛門〇 助二郎 当番 清天
         |
鍛冶奉行     |一、桑方猪助かぢ奉行仕候ニ付、 御印頂戴被仕候、守田又兵衛男材木奉行ノ御印頂戴被仕せ候事、
目安箱穴狭少故仕 |一、公叓ノ目安箱出来、穴今少せはき故、直シニ遣候、
直シ       |                                (矢野)
薩摩ノ馬ノ代銀廿 |一、平井加右衛門登城、薩摩へ、馬ノ代銀何ほと可被遣哉と申候ヘハ、矢利斎も御奉行所ニ居合、銀
枚        |  廿枚ほと被遣可然候ハん、御諚も右之通ニ而候と覚え申由候、廿枚分ニ而かい候へと、被 仰置
         |  之由候事
松ノ丸中火ノ用心 |                     
(中村新助室・忠興乳母)
ノ配備 大局ノ家 |一、利斎申候ハ、松丸中火用心人わり、御馬屋・大御つほね家いかゝと申候ヘハ、松ノ丸ニハ御物か
ハ団左兵衛へ貸与 |  き衆、御馬屋ハ御中間衆・同頭衆、大御つほね家ハ団左兵衛ニかし申候之事
         |
山田喜斎中津ノ方 |                 (烏丸光賢室・三斎女)
ノ供シテ上洛出府 |一、山田喜斎登城、明日、中津へ参、 御万様御供仕、中津ゟ直ニ罷上、それゟ江戸へ参候由、同中
セントス     |  津へ参候古キ御乗物、御かし被成候、返し被申候事
         |
忠興留守中牢ノ鍵 |一、鍵かき、御留守中ハ、御奉行衆御預り候て可然之由、竹村弥右衛門申候、矢利斎も同前ニ申由、
ノ保管  用アレ |  御預りなく候ハヽ、御使はかりニ而ハ不成候間、御用ニ候時ハ、指帋ヲ給候へとの事
バ差紙ニテ願ベシ |
松下掃部ノ合力米 |一、冨田十太夫ゟ、中川四左衛門ヲ使、松下掃ア方御合力米、御扶持方ニ直シ被遣候指帋、二月と御
ヲ扶持方ニ直ス  |  座候、正月ゟニ被成可被下之通ニ候、 御肩書ニも、如前々被遊候間、正月ゟと書被直候事
         |
小笠原長元ノ知行 |               (小笠原長元)                   (形)
根付ノ触状ニ郡奉 |一、矢利斎ゟ、御奉行衆へ書状、小民ア殿知行根付ノ触状ニ、御郡奉行衆判刑無之候由候、民ア殿ゟ
行等ノ判ナシ   |  節々便有之儀ニ候間、其御状ヲ給候へ、民ア殿御座候而、判可有御取とのよし、申越候事
         |
片山示庵ノ船ノ用 |             (津川辰珍
意        |一、片山示庵被上候舟之儀、津四郎右衛門殿ゟ御申候、何時成共、舟ハ示庵次第ニ可申付之由候事
         |
片山十二郎ノ「本 |一、同人子十二郎ゟ、本ぞうかうもくの儀ニ付、四郎右衛門殿へ書状、御奉行衆へ御見せ候、于今、
草網目」     |                  (国遠)              (矢野)  
         |  示庵へ不参候哉と、奉行衆被申候、道倫ゟ先日持せやられ候と、助二郎覚候
         |
宮部権三郎吉山福 |一、宮部権三郎と吉山福万と下女出入之儀、権三郎登城ニ而申候、是ハ去年以来之儀候、福万かつ
万下女ノ出入   |  てん不参候間、竹村弥右衛門ニ異見させ可申との事
         |

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