元和元年(1615)徳川幕府は諸大名の軍事力を抑えるため「一国一城令」を定め、領内で居城以外の城を破却させた。
熊本でも多くの城が破却されたが、八代城だけは例外となった。薩摩の島津氏に対しての抑えという意味合いを持つ。
加藤氏没落後、細川忠利が肥後に入国するが、八代には隠居領95,000石をもって父・三齋が入城した。
正保二年の暮れにこの三齋が亡くなると、当時の細川家当主光尚は、三卿家老筆頭家の松井興長を入城せしめた。
しかしながら、松井家は30,000石であり、三齋同様に島津氏の抑えるために、「八代御城附衆」を派遣している。
この両者に軋轢もあったようで、御城附衆による訴訟沙汰も起こって居り、藩庁は苦慮し長期に及んでもその解決には至っていない。
八代城下町図を眺めると、城下の主要な場所に松井家重臣たちの家と共にこれらの人たちの屋敷が入り混じっていることが判る。
いろんな軋轢がありながらも、御城附衆と松井家家臣との豊かな交流もあった。
例えば、松井姓を拝領している有力家臣・井上治部右衛門(700石・鉄炮頭)等は、嫡子が早世、その男子もなくなったために養子に、熊本藩士で八代御城附衆の白井次右衛門の二男・喜平太を迎えて居る。
白井家の先祖附をみると、次右衛門から数代、御城附の任務を続けており、松井家との関係も良好であったのだろう。
我家の高祖母の実家・U家の初代の奥方は、松井家の家司Y家から嫁いでいるし、その娘は同族Y家に嫁ぐなど縁戚としての深いつながりがある。
他にもこのような関係は多くあるのではないかと想像している。