津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■元和拾年 萬覚書(12)

2019-09-04 11:10:36 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)廿四日

         |     (幸長) 
         | 一、野田小左衛門尉、中津へ御算用ニ参候事
         | 一、問太郎助ゟ之書物、上り申候事
彦山忠有忠興代ニ |    (忠有) 
得シ座主領分免許 | 一、彦山座主ゟ、御使札参候、様子ハ、先御代ニ、万事座主御領分御免許ノ飯川豊前殿・加納曲斎の
状ノ返還ソノ実行 |   状を可返ス 御出船前ニ得 御諚申候通を、返事ニ申越、則、其旨、御郡奉行衆へも申付候へと
ヲ求ム      |   の事                                      
         | 一、吉田茂左衛門・岩崎太郎兵衛所へ遣候状、返事参候、左藤半助手前ハ、廿二日ニ御算用相澄候、
         |   堀江半兵衛手前ハ、廿三日ニハ可相澄哉と、申来候事
         | 一、座主ノ返事、幷飯川豊前殿・加納曲斎ゟ書状返シ渡候、使ハ横山理兵衛也
         | 一、左藤安右衛門尉・春木與吉、金山ゟ被罷越候事
江戸へ送ル焼物ノ | 一、問太郎助、二、三日中ニ山へ参候間、江戸へ持参申候焼物之薬・道具相調候奉行、太郎助方へ遣助     
釉薬道具ノ調整  |                 (津川辰珍)   
         |   急度相調、誘させ可申候間由、四郎右衛門殿被仰候事
         |              〃
         |                         (志水元五)
溜池焼物ハ成ラズ | 一、ため池ニ而ノ焼物ハ成不申由、江戸へ之便宜ニ、伯耆所迄可被仰遣由、四郎右衛門殿被仰候事
         |
七反帆ノ屋形ナキ |   (片山)
船        | 一、示庵乗上り被申候舟、七端帆ノ屋かた無之舟可申付由、四郎右衛門殿被仰候事
         | 一、金子喜左衛門・坂本二兵衛・石本三助・井上平右衛門、手前之御算用相済申候事
         |   三
到津八幡社ノ遷宮 | 一、今月廿八日、到津八幡社之御遷宮、御奉行衆ゟ、御名代参候ヘハ廿八日之昼、不参候ヘハ夜之御遷
         |   〃
         |   宮之由
         |

                                            廿五日
                                      
         | 一、御船頭野間長介、大坂を去廿日ニ出船仕、廿五日ノ朝五時ニ、参着申候事
忠利大坂城普請場 |       朝ノ五ツ 
見分夜川船ニテ江 | 一、去十七日〇ニ、 殿様大坂へ被成御着、其日、御普請場被成御覧、其晩ニ、川御座に御召候而、
戸へ赴ク     |   夜船ニて、御上り被成候由、長介申候事
         |                                           右之酒弐
島津家久へ進ム諸 | 一、薩摩守様へ被遣候諸白樽十五、右之長介積解候、則。、廻船ニ置候へと、申渡候事、但、壱ツニ
白下着ス     |   石九斗一升七合
         |   付
釐等具四     | 一、れいてんぐ四つ、内二つハ壱匁に付、弐リン走り、弐つハ五厘ばしり、但、運上ばかり也、是を
買金秤      |   申付候、■■御買金ノはかりハ、百匁ニ弐匁、運上はかりハ、百匁ニ五匁
運上秤      |                    十匁ニ弐分                       十匁ニ五分
         |                   一匁ニ二リン        一匁ニ五リン

         |                   壱分ニ弐毛         一分ニ五毛
           |    (水)                                  (細川光尚)

江戸ヨリノ音信  | 一、速見四郎三郎罷解候ニ、参候江戸御留守居衆言上之文箱二つ、御六様ゟノ御書壱つ参候、四郎
         |              〃〃
         |   三郎ハ、中津へ直ニ舟乗候て、主者ニ持せ越候事
         |

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■わずかばかりの運の悪さと・・・

2019-09-04 06:13:37 | 人物

〇 下村巳安  三斎様御附中津ニ相詰候衆 二百石 (於豊前小倉御侍帳)
            「伝蔵か父ハ下村己安と申候而山本勘助か孫也、勘助河中嶋ニ討死いたし候時、嫡子・二男
             共ニ討死、三男ハ幼少ニ有之候しを、家女かくし置、後ニ下村安笑と申候、其子下村己安三
             斎君於豊後召出、御知行三百石被下、伝蔵も部屋住の時より百石拝領、八代江も被召連候、
             原城後百石御加増、後ニ伝右衛門と改申候、三斎君・立允主も御死去後、丹後守殿ニ相勤、
             其後御暇申候而熊本二而致病死、其子孫当時南郷一領壱匹下村伝右衛門也」

〇 下村傳蔵(巳安子) 三斎様御附中津ニ相詰候衆 百石 (於豊前小倉御侍帳)
             「弐百石--下村傳蔵 右者松井右近子孫作ニ志うと(舅)ニ而御座候」
                    (正保三年三月十六日付・八代侍衆知行高之覚--丹羽亀之允言上之覚・所収)
〇 下村順庵  外様御医師 南郷 七人扶持 (御侍帳・元禄五年比カ)

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 上記の如く「於豊前小倉御侍帳」に、武田信玄の軍師と伝えられた山本勘助の孫「巳安」とその子「傳蔵」父子が細川家に仕えた消息が見える。
又伝蔵(後・傳右衛門)の子、順庵の消息が「御侍帳・元禄五年比カ」で見受けられた。
しかしながらこの三代以降、その後の消息は細川家の侍帳では途絶えてしまっている。
「巳安」に関する下記紹介記事にある「其子孫当時南郷一領壱匹下村伝右衛門也」を頼りに、「近世大名の領国支配の構造」を眺めてみると、p185に「下村勘兵衛」の項があり、「一領一疋・下村傳右衛門」の先祖附が紹介されていた。
「巳安」の記事にある通り、息・伝蔵は三齋に仕えており、天草島原の乱では細川立允に従って活躍している。
立允・三齋亡き後、宇土細川家の創立と共に宇土へ移り、そのうちに江戸詰めを申し渡されたが傳蔵は齢を重ね、「難相勤」主命を断らざるを得ない状況であったらしい。
そして江戸詰めをお断りし知行をも差し上げて宇土細川家を退去している。
主命をことわるということは、こういう結果を招く。時のめぐりあわせとはいえ、運の悪いことではある。
傳蔵の子・勘兵衛(順庵)も宇土細川家に仕えたが、父・傳蔵の牢人に伴い共に熊本に居住していたが、医業の心得があったことから、阿蘇南郷の御郡医師に仰せつけられた。
ここまでが細川家の侍帳が記す所だが、これらの人々を含め「近世大名の領国支配の構造」記載の先祖附に於いて詳細に知ることが出来る。
以降子孫は一両一疋の身分となり、中には惣庄屋などを努めたりしている。

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