細川家の上級家臣に木村家がある。その祖は宇治の茶奉行・上林峯順である。遠祖を上林加賀守とする。
「綾鷹」で有名な宇治の茶舗上林家は同族である。
細川家家臣としての初代は、木村峯順重胤の弟・半平豊政である。
二代、豊持が細川綱利に近侍して家老脇まで出頭した。三代は綱利の甥の二男を養子に迎える等、細川家とも血縁関係となっていく。
オープン以来大変な賑わいを見せている桜町再開発ビルの前のイベント広場(産業文化会館跡地)は、かってこの木村家の屋敷があった場所である。お隣は細川家の花畑邸という事になる。
この場所を拝領するについての記事が「肥後諷刺文学」にあった。
「一熊本山崎天神丁角屋敷 三千石 木村新吾ニ
若殿様新御殿を被下引移ニ付落書 天明元年九月比
木村より引料なしの屋移りは是ぞ誠の新吾天なり」とある。
該当するのは5代の新吾貞勝(明和九年七月跡目、二千七百石 番頭 寛政四年六月五日歿・四十七歳)だが、この時期若殿様と呼ばれていたのは、細川治年である。つまり治年は花畑邸ではなく、隣にあった御殿(のちの木村邸)に住まいしていたことが伺える。
古い絵図を眺めると、以前は「長岡隼人(細川宣紀七男・後刑部6代当主)」「同・左七郎(刑部家別家初代・興恒)」邸など、刑部家の屋敷であったことがわかる。治年が誕生するに及んで、この場所が新御殿となったのであろう。
我がブログの「我が家検索リスト・2 (68-2 熊本所分絵図 山崎之絵図)」では、花畑邸のすぐ下に、「木下男吏」の書き込みがあるがこの場所である。
たかだかの「落書」なのだが、このような有力情報をもたらしてくれるのでありがたいことではある。
1、木村半平・豊政(山城国宇治住木村峯順重胤弟)
寛文五年八月新知三百五十石、追々加増・都合千石 側用人 延宝六年三月歿
2、 半平・豊持(養子 実・宇治代官上林某子、半平甥 後・夫馬)
着座、用人、家老脇、追々加増三千石、家老職 享保六年九月致仕・主馬と改
隠居料百五十人扶持 寛保三年十二月二十七日歿・八十三歳
3、 主水・豊章(養子 実・細川采女正利昌・新田支藩二代当主・二男 清吉)三千石 旅御家老
享保六年家督 元文四年二月致仕
4、 男吏・豊暉(養子 実・同氏清兵衛嫡子 半平)中着座 三千石
明和九年五月九日歿・五十四歳 妻清水勝貞女
5、 新五・貞勝
明和九年七月跡目、二千七百石 番頭 寛政四年六月五日歿・四十七歳
6、 万之助・豊信(万之丈)
寛政四年七月跡目・二千五百石 中小姓頭、小姓頭、留守居番頭、佐敷番頭
文化十二年十一月致 著作:肥後畸人伝
7、 橘次・豊寿(養子 実田中保行四男 次郎左衛門)
文化十二年家督二千弐百石 留守居番頭、番頭、小姓頭、用人、大目付
文久元年十二月致仕 同三年十月十四日歿・七十一歳
8、 男吏・豊寧
文久元年家督、用人、大目付、中老職、家老職 明治二年十一月致仕 新と改
9、 半平 三千石