先のマイPCのトラブルが起きたときに、突然Youtubeに自動生成字幕が入るようになった。
最近いろんな先生方の「講演」をよく拝見しているが、この厄介者が目障りで仕方がなく何とか処置をして今は健全な状態である。
この自動生成字幕、特に講演などでは、マイクの感度が悪くて後援者の言葉がよく聞き取れないものがある時は、この字幕があることで助けられ、寸秒の遅れもなく出てくるのは良いが、その語句変換のいい加減さはまだまだこの機能の生育度は完全ではないことを物語っている。
それに、本来の字幕に重なるとか、いろいろ問題がありそうだ。
複雑な日本語の語彙を、講演の内容や前後の言葉から、その語句を正確に転換するのは大変なことだとは認識しているが、後で読み返して誤りを訂正するくらいの作業が必要であろう。
AIによる説明も多く見受けられるようになったが、少しイントネーションが怪しかったり、問題点が多いものも見受けられる。
それにしても、技術の発展には驚かされてついていけないが、爺様はこのような「自動生成字幕」を削除するのさえ一苦労した。(終えてみると誠に一瞬で簡単だったが・・)
寛永十一年閏七月二日酒井忠勝宛忠利書状(2483)は大変興味深い。
一書申入候 萩原(兼従)殿之儀 豊国へ被遣候時も 萬事 権現様(家康)御直判を
以被仰出 知行之儀も勿論右之分ニ御座候 此御書物三ツ内慶と御座候ハ 萩原
殿雅名ニ而御座候 又 豊後ニ而千石被下候時も 三齋へ御奉行衆より慥被仰聞候
由候 秀頼より御申渡候儀は一ツも無御座候 御書出三ツ 則懸御目候 恐惶謹言
閏七月二日
酒井讃岐様
人々御中
萩原兼従とは吉田兼治(室・幽齋女伊也)の嫡男である。秀吉亡きあとの慶長四年豊国神社が建立され、兼治の父・兼見の十八歳も年が違う弟の梵舜が社家となった。その後梵舜は甥(兼治)の子・兼従を豊国神社の後継者にした。処が家康は豊臣家の没落後、豊国神社の破却を命じるとともに、秀吉廟の周辺に別途寺社の建立を許可し、参詣の通行を阻止するなどの暴挙に出ている。社人はことごとく追放されたが、梵舜ならびに兼従は家康から扶持を与えられたのである。
上記書状は其のことに触れられている。当然酒井忠勝からの問い合わせについての返答であろうから、幕府内で何らかの協議が為されていたのだろう。
その後の事はよく判らないが、貴重な書状といえる。
● 秀吉正室高台院姪
+--------------兼見---兼治 ‖
| ‖------兼従=====◎ 一時期行孝を養子とす
| 細川幽齋---+---伊也
| |
| +---忠興---+---忠利
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| +---立孝----◎行孝
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+-----------梵舜
兼従の室(高台院姪)なる人物が良くわからない。私は幽齋女加賀(高台院甥・木下延俊)の娘ではないかと考えているのだが。
それにしても家康による豊国神社の破却行為はすさまじく眉をひそめざるを得ない。(津田三郎著 秀吉・英雄伝説の奇跡に詳しい)