そろそろガラシャ夫人のご命日が近い。
小倉に於いての菩提寺の所在については大方の場所は判っているようだが、熊本に於いては不思議なことに何処にあったのか所在が不明である。
寛永12年7月12日に乃美主水・河喜多五郎右衛門への御書に次のようにある。
加藤忠廣の時代には、御花畑から城内竹之丸に坪井川をまたぐように廊下橋がかけられていたとある。
忠利公の時代に至っても、当然橋が残されていたであろうから、ガラシャ夫人の霊所・秀林院は竹之丸にあったというのである。
泰勝寺の建立後、三齋公のご逝去を経て幽齋公ご夫妻の横に三斎公・ガラシャ夫人の墓所も建立され今日に至る「四つ御廟」となったと考えら
れるが、そこに至るまでのガラシャ夫人の霊所に関する詳しい資料が見当たらない。
忠利公が花畑邸から廊下橋を渡って竹之丸の母君の霊所に向かわれる姿が想像できる。
又、光尚公が妙解時を建立後、後悔されたという話も伺われて興味深い。
一、(寛永十二年)七月十二日、乃美主水・河喜多五郎右衛門江被下御書之内
竹の丸之広間秀林院ニ引候ニ付而書中見候、こけらふきに可申付候事
此御書を以考候ヘハ、御先代より竹の丸にも少々御間取有之たるなるへし、或語伝に、忠広之時にハ御花畑御殿坪井川のうへを廊下つゝきにて、
御城より御往来つかへさる御かまへなり、それゆえ妙解院様御本丸御住居之内も、御花畑御広間に御馬廻衆より常にかわる/\御番仕候由、御
敷台もさつといたしたるとりふきにて、拭板なともなく、竹簾を敷有之たつなり、虚実ハはかりかたし 元和年中に豊前ニ秀林院被建置候を、当
御國に御引被成候と聞へ候共、其年月・寺地之所柄并停廃の事もわかり不申候 真源院様御代寛永十九年、護国山妙解寺御建立被成候事を、正保
之末比に成候而ハ御後悔被遊候との語伝、乍恐深き尊慮被可有かと奉存候、御代々之御菩提寺ハ泰勝院一ヶ寺にても可被為済物をとの思召ニ而、
御国のため御家の為、後年累とも可成筋ハ少にても御省き被遊度との御意を、奉伺たるとの申伝へも有之由、強て考候に、正保二年三齋君御逝
去後、八代の泰勝院を熊本に御合せ被成候砌なと、秀林院をも一ッに御よせ被成候而、院地ハ御こほち被遊候かと奉存候