2200石 木村次郎左衛門・・初代・半平は宇治の御茶奉行木村峯順の弟で寛文5年の召し出しで都合1,000石。
2代目半平は家老職まで上り詰めて3,000石、隠居を渋る綱利に諫言して隠居せしめた。
減知対象者になったのは5代の貞勝で300石減知で2700石。6代豊持も200石減で2500石。
次郎左衛門は7代目豊寿であり再度300石減知された。都合800石の減知となった。
1900石 岩間此面・・・・・岩間家は初代・六兵衛が忠利夫人の嫁入りに随伴する形で細川家に召抱えられた。
該当の此面はその三男(分家初代)の家系だが、新知に扱われているのは何故なのか判断に苦しむ。
初代正武が1000石、2代正孝が1500石、3代正豊が2800石、別禄召し出しになっているからからかもしれない。
7代恰が2000石、8代此面が1800石と確実に減知が行われている。
1900石 小笠原一学・・・・通称「小笠原多宮家」とよばれる。忠利夫人の弟・杵築藩主小笠原忠知の孫・長賢が初代で召し出しは
元禄14年と遅く、2000石を拝領したがまさしく新知の家である。
一学は3代目であり、この数字からすると100石の減知である。次代には又2000石に復している。
1200石 塩山惣右衛門・・ この家は代々200石の家であり、記載内容に間違いがあるのではないか?
1000石 清水新五左衛門・・清水ではなく志水氏である。初代は青龍寺以来の志水伯耆清久6000石、2代目は日下部与助、3代目新之允、
4代目新左衛門まで家禄は継承されたものと思われる。5代目新之允がなにゆえか「御暇」となった。
その為6代目主水が新知として1000石を拝領した。以降明治に至るまで代々1000石であり、減知は伺えない。
900石 中瀬助之進・・・・遠州久能城主16、000石 松下之綱の曾孫・助九郎豊長を初代とする。
1200石が3代まで続き、4代で1000石、5代はこれを受け継いだが、6代で900石となっている。
助之進とは7代目であり、6代目の家禄を継承している。
800石 堀尾彦左衛門・・・堀尾茂助吉晴の子孫である。4代目茂助は1000石、5・6代目が900石、該当の7代目彦左衛門が更に減知されて800石となった。
800石 神谷源助・・・・・宜紀時代に用人として権勢をふるった神谷矢柄が2代目、3代目も同名で1200石、4代矢一郎代に減知され1000石、
5代十兵衛が更に減知され900石となり、明治に至っている。
以下についても引き続き検証してみたい・
700石 磯村又之允
700石 堀部源兵衛
700石 小山万次 (蔵米)
650石 松尾亀次 (寸志)
650石 木村武左衛門 (寸志)
600石 八木弥次郎
550石 荒木恒次郎
500石 奥田小左衛門
500石 兼松直部
500石 柏原次郎四郎
500石 吉田仁郎右衛門
500石 沢村八郎次
500石 志水彦之助