津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■検証「新知の家・高禄者の世減の規矩」-2

2024-07-06 06:13:37 | ご挨拶

     2200石 木村次郎左衛門・・初代・半平は宇治の御茶奉行木村峯順の弟で寛文5年の召し出しで都合1,000石。
                 2代目半平は家老職まで上り詰めて3,000石、隠居を渋る綱利に諫言して隠居せしめた。
                 減知対象者になったのは5代の貞勝で300石減知で2700石。6代豊持も200石減で2500石。
                 次郎左衛門は7代目豊寿であり再度300石減知された。都合800石の減知となった。
     1900石 岩間此面・・・・・岩間家は初代・六兵衛が忠利夫人の嫁入りに随伴する形で細川家に召抱えられた。
                 該当の此面はその三男(分家初代)の家系だが、新知に扱われているのは何故なのか判断に苦しむ。
                 初代正武が1000石、2代正孝が1500石、3代正豊が2800石、別禄召し出しになっているからからかもしれない。
                 7代恰が2000石、8代此面が1800石と確実に減知が行われている。
     1900石 小笠原一学・・・・通称「小笠原多宮家」とよばれる。忠利夫人の弟・杵築藩主小笠原忠知の孫・長賢が初代で召し出しは
                 元禄14年と遅く、2000石を拝領したがまさしく新知の家である。
                 一学は3代目であり、この数字からすると100石の減知である。次代には又2000石に復している。

     1200石 塩山惣右衛門・・ この家は代々200石の家であり、記載内容に間違いがあるのではないか?
     1000石 清水新五左衛門・・清水ではなく志水氏である。初代は青龍寺以来の志水伯耆清久6000石、2代目は日下部与助、3代目新之允、
                 4代目新左衛門まで家禄は継承されたものと思われる。5代目新之允がなにゆえか「御暇」となった。

                 その為6代目主水が新知として1000石を拝領した。以降明治に至るまで代々1000石であり、減知は伺えない。
    900石 中瀬助之進・・・・遠州久能城主16、000石 松下之綱の曾孫・助九郎豊長を初代とする。
                 1200石が3代まで続き、4代で1000石、5代はこれを受け継いだが、6代で900石となっている。
                 助之進とは7代目であり、6代目の家禄を継承している。
    800石 堀尾彦左衛門・・・堀尾茂助吉晴の子孫である。4代目茂助は1000石、5・6代目が900石、該当の7代目彦左衛門が更に減知されて800石となった。

    800石 神谷源助・・・・・宜紀時代に用人として権勢をふるった神谷矢柄が2代目、3代目も同名で1200石、4代矢一郎代に減知され1000石、
                 5代十兵衛が更に減知され900石となり、明治に至っている。

 以下についても引き続き検証してみたい・
    700石  磯村又之允
    700石  堀部源兵衛
    700石  小山万次   (蔵米)
    650石  松尾亀次   (寸志)
    650石  木村武左衛門 (寸志)
    600石  八木弥次郎
    550石  荒木恒次郎
    500石  奥田小左衛門
    500石  兼松直部
    500石  柏原次郎四郎
    500石  吉田仁郎右衛門
    500石  沢村八郎次
    500石  志水彦之助

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