三池式部少輔・親家(左馬之丞)
加藤清正臣・二千四十八石(加藤家侍帳・時習館本)
布治丸・作十郎、式部少輔・左馬允
加藤清正ニ仕エ後細川氏家臣 法名道安(新撰事蹟通考他)
小代下総守・親泰
加藤家侍帳・四千百三十五石五斗三升
人持衆併組迯衆 百五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)
かっては敵味方の仲であった両氏だが、共に清正旗下に組み込まれ、加藤家没落後は細川家臣となった。
寛永十五年の「覚」によると三池左馬丞は同年四月五日に病死している。跡目相続に関する「覚」であるが、(嫡子)廿五歳の左兵衛、二男廿歳の善大夫、三男でまだ四歳の亀松それに母親と妻が残された。ところが「右右馬允ハいまた御扶持方をも不被下候」とあり、相続すべき扶持がないまま亡くなっていることが分かる。七年後の正保二年「御扶持方御切米御帳」によると、御合力方として「五十人扶持・三池左兵衛」「五十人扶持・三池善大夫」と記載されている。左兵衛・善大夫は「覚」にある、嫡子・二男である。「真源院様御代御侍名附」に「善大夫・親次 人持衆并組外衆 五十人扶持」とあり先の記録と一致する。
又、「百五十人扶持・小代下総」の記載もある。これも「真源院様御代御侍名附」の記録と一致している。「真源院様御代御侍名附」の成立は寛永二十一年と考えられているそうだから、両家の召出は寛永十五年から二十一年の間である事が分かる。
尚、この「御扶持方御切米御帳」に宮本武蔵の名前が登場し、「七人扶持十八石」を頂戴したことが分かる。
加藤清正臣・二千四十八石(加藤家侍帳・時習館本)
布治丸・作十郎、式部少輔・左馬允
加藤清正ニ仕エ後細川氏家臣 法名道安(新撰事蹟通考他)
小代下総守・親泰
加藤家侍帳・四千百三十五石五斗三升
人持衆併組迯衆 百五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)
かっては敵味方の仲であった両氏だが、共に清正旗下に組み込まれ、加藤家没落後は細川家臣となった。
寛永十五年の「覚」によると三池左馬丞は同年四月五日に病死している。跡目相続に関する「覚」であるが、(嫡子)廿五歳の左兵衛、二男廿歳の善大夫、三男でまだ四歳の亀松それに母親と妻が残された。ところが「右右馬允ハいまた御扶持方をも不被下候」とあり、相続すべき扶持がないまま亡くなっていることが分かる。七年後の正保二年「御扶持方御切米御帳」によると、御合力方として「五十人扶持・三池左兵衛」「五十人扶持・三池善大夫」と記載されている。左兵衛・善大夫は「覚」にある、嫡子・二男である。「真源院様御代御侍名附」に「善大夫・親次 人持衆并組外衆 五十人扶持」とあり先の記録と一致する。
又、「百五十人扶持・小代下総」の記載もある。これも「真源院様御代御侍名附」の記録と一致している。「真源院様御代御侍名附」の成立は寛永二十一年と考えられているそうだから、両家の召出は寛永十五年から二十一年の間である事が分かる。
尚、この「御扶持方御切米御帳」に宮本武蔵の名前が登場し、「七人扶持十八石」を頂戴したことが分かる。