津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ひい爺様の仕事

2008-04-22 10:51:58 | 歴史
 横井小楠の「士道忘却事件」というものがある。某所にて酒席を一緒にしていた横井ら三人が何者かに襲われ、小楠は刀を取りに藩邸に走り帰る。其の中の吉田平之助は果敢に立ち向かい傷をえて後絶命する。藩庁は横井に対し「国辱もの」だとして士席を剥奪している。事件が起きたのは文久二年十二月の事である。平之助嫡子巳久馬(後・傳太)の、苦難の仇討ちの旅が始まる。

 慶應四年曽祖父は細川護美公に随い京都に在った。同僚益田某が、松山藩某氏より下手人安田善助・黒瀬市郎助の情報を得る。松山藩との交渉により黒瀬は鶴崎に護送される。安田はすでに亡き人であった。吉田はこの地の就奥寺において仇を討つのである。慶應四年二月三日、七年の歳月が経過していた。この年横井小楠も、新政府に参与として出仕するが、翌明治二年一月十五日参内の帰途を襲われ亡くなることとなる。

 京都から帰った曽祖父は穿鑿役を勤めた。そしてその顛末を書き残している。「吉田傳太復仇一件聞取書」「吉田傳太復仇現聞録」である。宮村典太氏編著「藻塩草・巻八十二」所載のものであるが、日付けは明治三十年三月とあるから、宮村氏の要請に応じて後日改めて筆をとったものであろうか。
ひい爺様の仕事ぶりが伺えるただ一つのものである。
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萬延二年三月朔日・・?

2008-04-21 12:34:58 | 歴史
 あるお宅から「御書出」数通をお送りいただいた。一通の御書出に上記の日付が書かれてある。
ムム・・おかしい・・・。万延二年は二月十九日文久と改元されているはずだ。「三月朔日」という日は存在しない。ひょっとしたら、これは「お宝物」じゃーないかと興奮してしまった。「慶順」とあるから紛れもなく元号は「萬延」である。グレゴリオ暦の採用は十数年後の明治五年の事だから新暦でもない。
紛れもない「お宝」だ・・・。
 安政七年三月十八日改元された「萬延という元号」は、同二年二月十九日更に「文久」と改元され、わずか一年足らずで消滅している。よくよく考えると、江戸から熊本まで、早飛脚でも二十日位を費やする。これがこの「御書出」を「お宝」とした所以であろう。(しかし同時期に書かれた、御書出が他にも有るかもしれないなー・・)
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嘆かわしい

2008-04-21 09:09:47 | 徒然
 年をとると言う事は、こういうことかと愕然とさせられる。図書館へ自転車で出かけることは別段苦にならないし、体力が落ちたとも感じない。(時折、心臓が悲鳴を上げるが・・)根気がないのである。特に古い文書のタイピングがいけない。解読不能な文字を睨みつけながらの事も有ろうが、10行ばかり打ち込むと一休みしなければならない。しばらくの間、まったく違う事をして、又再開すると言った感じである。読書にしてもそうで、一気呵成に読了する事が出来なくなった。メールや手紙の返事にしても、「即」とはいかなくなった。・・嘆かわしい。
 以前TVで明石屋さんまが、「花鳥風月に興味が出てきたら年寄りの証拠」とのたもうた。その通りかもしれない。その年齢並に楽しく生きられればそれでよいと思うのだが、私の「根気」は年齢並では無くなってきているように思えて仕方がない。
 
 
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熊本城、そして永青文庫

2008-04-20 12:25:49 | 熊本
 待ちに待った熊本城本丸大広間が、今日一般公開された。すばらしいお天気にも恵まれ、沢山の人達で賑う事だろう。入城制限が予想されているともいう。66爺はゆっくり時間を掛けて拝見したいので、後日賑わいが一段落してから出かけようと思う。

 熊本県立美術館本館では、永青文庫常設展示場が4/25日にオープン予定、こちらも待ちに待ったものだ。日本一の文化遺産に常時触れられる事に感謝したい。
さて、今日の地元新聞は、永青文庫が休刊していた季刊誌を再刊する事、また「友の会」活動を始めた事を報じている。永青文庫が段々身近に感じられてくる。さらに、熊本大学に委託収蔵されている史料の閲覧がもう少し簡単にならないかと願っている。理事長、御一考を・・。(永青文庫HPで情報を得られないのが残念・・広報をお願いしたい)
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「北関始末實記」より

2008-04-20 11:06:01 | 歴史
   今日南関江旅行北関至先年其方儀藤田父子
   令誅戮無比類働申候場所今見様存候其邑老
   村女マテ感心申候天下静謐ノ節家老職其方
   ヲ持申事世上無上稀有之事ト存候 謹言
     三月六日  越中綱利・御判
             山名十左衛門殿

 2007/7/28付当ブログに「細川一族の決闘」を書いた。前川勘右衛門とその一族が、藤田助之進親子を討果したと言う事件についてである。末尾に「細川家にとっては苦々しい事件では有る。」と書いたが、藩主綱利はそうでもないらしく、その決闘に参加した十左衛門は上記のような「賜書」を受けている。

 勘右衛門と藤田助之進女の縁談の話しが、山名一族の話し合いにより破談となる。山名家当主・十右衛門(従兄弟)、前川与三兵衛(従兄弟)、外縁家長長岡佐渡興長(室忠興二女古保)、津川次郎左衛門長房、藤崎作左衛門直治、細川修理直房、長岡佐門興知らが談合「此縁組之儀ハ無用」と相成った。丁寧な断りが入れられたが、藤田助之進の怒りは収まらず某所に於いて、勘右衛門の所業誹謗したとされる。勘右衛門はこれに対し反論するも両者の溝は埋る事はない。山名一族は「面子」が汚されたとして、果し合いを申し入れる。勘右衛門本人にはどうもその気がなかったように伺えるが、長老達の意思が勝ったのであろう。そして事件が起った。

 あるサイトを見ると、藤田助之進の家来が鉄炮を打ち掛ける中、十右衛門らが活躍して藤田親子その他を討ち取ったと記すものがあるが、他藩領内でそのようなことが可能であろうか。史料を読むと両方共に鉄炮方の人間が参加している事は事実であり、死者も出ている。鉄炮方の人間だからと言って、鉄炮を打ち放つとは限らないだろう。山名家(三渕家)が細川家に非常に近い家柄だけに、鉄炮云々の話しは信じがたい。

 勘右衛門は後、杵築において自害する。23歳。一族の面子が彼を死へと誘った。そして山名家(三渕家)は栄えていく。山名家側に非が有ったとは思えないが、後味の悪い事件ではある。「細川家にとっては苦々しい事件」と書いたが、ここで訂正しておこう。

 
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夜中越中

2008-04-19 12:24:00 | 書籍・読書
 福富真紀著「徳川将軍側近の研究」が面白い。きっかけは細川藩士薮田氏に関する、疑問と勘から誕生した偶然である。「細川家家臣略歴」の薮田氏項を見ると、家祖を柳沢白鴎としている。細川家と柳沢家の関係は「夜中越中」と言われる如く、柳沢吉保にすりよる細川綱利の姿がある。もしやと思い大和郡山の「柳沢文庫」にお尋ねした。まさに的中で上記著書に詳しいのでこちらを見るようにとのご示教をいただいた。綱利の「夜中越中」ぶりが伺えて大変面白い。また、薮田氏の召出に係わる事情もよく理解できる。

 綱利は継嗣を亡くしたため、柳沢吉保三男安基を養子に所望し、吉保も了解していたらしい。ところが老中稲葉正往が「国許の家中は同心するのか、近親はいないのか、無縁の者の養子は御条目にたがう」として、実現しなかったらしい。その事を以って正住は将軍や吉保の不興をかい失脚したと言う。細川家と稲葉家との関係は、春日局との懇意まで遡る大事な関係だが、綱利も罪なことをしたものだ。綱利が弟・細川利重の二男宣紀を養子に迎えるのは其の直後である。その他いろいろ「夜中越中」に係わる話しが興味深い。
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www.aoisan.jp

2008-04-19 10:51:39 | 熊本
 人吉は霧の町だといわれる。相良氏700年の城下町である。球磨川沿いに石垣を連らねる城跡がそれこそ霧に見え隠れし、その様は一幅の墨絵を見るようだ。建築設計の仕事に携った私は、駆け出しの頃人吉の某施設の設計監理の為に半年ほど、この地で過ごした。市内の下宿から青井阿蘇神社の前を通って毎日現場に通った。高速道路で繋がれた今日では、車で1時間で行き来出来るようになり、隔世の感があるが、あの下宿時代が懐かしい。

 今日の新聞の「一面」は、その「青井阿蘇神社が国宝に指定された」事を報じる記事が踊っている。建物の一つ一つが鮮やかに蘇ってくる。監理事務所の手伝いをしてくれた老人が、人吉には世界に誇れるものが三つあるという。「霧のロンドンに次ぐ霧の町」「人吉城」そして「青井さん(青井青神社)」だと・・・・。

 5年ほど前、やはり設計・監理の仕事で人吉の先のO町に二年ほど通ったが、インターチェンジからやや離れている「青井さん」には一二度しか訪れる事が出来なかった。改めてお参りせずばなるまいと思っている。
                       Congratulations
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「るかう」

2008-04-18 10:43:24 | memo
 「蜈蚣草をるかうと申候由葉むかての足ニ似申たるとの儀たるへく候」
   寛永七年九月廿三日 越中(忠利)宛、三齋書状
                (熊本縣史料・近世編第二p697)

 「蜈蚣草」って何だろうと思い、ぐぐってみるといきなり韓国系のブログへと飛んだ。それも日本語翻訳機能がはたらいて出てくる。これが可笑しくてしょうがない。
「膵膓癌, 脳腫瘍 義 特效薬.... < ビダンプル >」まではいいが、「欠席 とかして カマキリ はなす 草」ときた。この意味が100%理解できないのは、脳細胞の欠落の激しい私ではあるが・・・私のせいではない。(おもしろいなー)
 今ひとつぐぐってみると「中日英草花専門辞典」なるサイトへ導かれた。
「蜈蚣草」とは、アロエであることが判明、なるほど三齋がいうように「むかての足」に似ているといえば似ているではないか。しかし「るかう」と言うのが分からん・・・。

 蛇足(ムカデの足ではありませんよ)
過日TVで、ある文章を翻訳機能で英訳し、それを再度和訳すると言う事をやっていたが、これには笑ってしまった。
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長岡河内離国

2008-04-17 19:32:25 | memo
 三齋の死後、家老職を勤めた長岡(村上)河内は肥後を離國する事になる。
その折の「長岡河内被召出度由ニ而堀田加賀守様より之書状」

   猶々御病中御披見もいかヽと存候へとも如此ニ御座候
   必不及御報候以上
 其後使を以も御見廻不申候御気色次第ニ被得御験気候哉承度奉存候左様に
 御座候得ハ御同名三齋被召仕候長岡河内儀帯刀殿見廻として罷下候由承候
 彼者いまた浪人にて長崎ニ罷在候由承候ニ付前かとより存候者儀ニ候間此方
 へ罷下心安被居候様ニと町左近を以内談いたし候處ニ同心に候此段早々可得
 御内意候処ニ此度ハぬし身代之とんちゃくよりも無之見廻迄に罷下候と申候ニ
 付隠密ニ而申合候儀ニ候へとも自他ワきよりも御聞可被成と存如此ニ御座候委
 細ハいつにても面上可得御意候恐惶謹言
  (慶安二年)六月二日              堀田加賀守(判)
          細川肥後守(光尚)様
                   人々御中

 堀田加賀守家中の町左近とは誰か。光尚室彌々死去に際し三齋の激しい怒りをかって、扶持放しになった町源右衛門は、のち堀田家に仕官することになるが、一族であろうか。長岡河内の堀田家召出しに係わっているのが興味深い。
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性懲りもなく

2008-04-17 18:15:54 | 徒然
 「大日本近世史料・細川家史料」の「人物索引」は、事情があってストップしている。東大史料編纂所のデーターベースは素晴らしくて、名前を打ち込めばその人物に関し、20数冊の書籍(細川家史料)が座右になくとも、たちどころに詳細な情報に接する事が出来て有り難い。だが(ここが私のこだわりの所以だが)、どのような人物が細川家と係わりをもっていたかを瞬時に知るには、やはり「人物索引」が必要だろうと思うのである。

 私は又、残る10巻のタイピング作業を行っている。校正など充分に行った上、東大史料編纂所のご理解を得て再度アップしたいと願っている。別段お叱りを受けて閉鎖した訳ではないが、内容がしっかりしたものにしなければいけないと、十二分に理解し頑張っている。
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忍冬葉(suikazura)

2008-04-17 12:25:05 | 歴史
 
すいかずら(忍冬葉)という植物である。私は以前本妙寺近くに住んでいたが、愛犬の散歩に良く通った本妙寺の裏山に見受けられた。名前を知らずに来たが今回ひょんな事で知る事となった。それは寛永三年五月十八日の「日帳」にある、次のような記事である。

      「すいかつらのは拾石■五斗取候て、ほし候て、可上由(略)」

 漢方の薬にでも使うのだろうが、十石五斗(?)とは凄い量である。五月といえばちょうどかわいい花が咲く頃だそうだが、そんな時期が収穫にてきしているのだろうか。

このような写真を眺めると、ちょっと里山でも歩いてみたい気持ちになる。
(写真はサイト「空風耳風」からお借りした)sora-m.ddo.jp/suikazura.htm
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すーすーすー

2008-04-16 12:36:39 | 徒然
 寛永十七年の書状によると、忠利は「白鳥のわた毛」を献上している。将軍家光が頭巾に羽毛を入れて重宝しているとも記している。月代をそり上げた頭というものはそれなりに寒いのだろう。熊本弁で言えば、「頭ん、すーすーすー(する)」といったところか。それかと思うとご一新後「斬切り頭」になった人達は、「頭がむれてしょうがない」とこぼしている。そもそも「月代」を剃るという行為は、兜をかぶった時に頭が蒸れないようにしたのが始まりだといわれる。それが士農工商総じての髪型になっていくわけだが、異人さんから見れば、「頭にピストルが乗っている」という事になる。

 藩主が亡くなったりすると、上士は髻(もとどり)を切ったりしたらしい。下士は元結を切ってザンバラ状態となる。月代も剃らなかったようだから、何とも異様な光景であったろう。(何時頃までの事かはっきりしないが) 蟄居などの罪を得ると、雨戸を閉めまわして月代も剃らず端座して、お許しの出るのを待つという事になるが、長岡元知の永蟄居などという処分の場合は、どのようなものだったのだろうか。

 今日の熊本はどうやら夕方から雨模様のようですが、曇り空の現在は私の部屋も21度ほどで、「足元ん、すーすーすー」状態です。
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思いがけない事

2008-04-16 11:12:34 | 徒然
■ 玄祖父上田休(久兵衛)は、明治八年三月中国を旅している。その折の日記が「一位日本武士眼中的中国--上田休的中国旅行記」として、中国人の手により研究されている事を知った。お教えいただいたのは、休の嫡流の玄孫に当たられる方である。所収の書籍が県内の図書館になく、福岡大学図書館からコピーを送っていただいた(熊本県立図書館のお手をわずらわせた、感謝)しかしチンプンカンプン・・・。中国人の知り合いはいないし、さてどうしたものかと頭を悩ませている。
(佐藤保先生古稀記念・中日文史交流論集所収--上海辞書出版社)

■ 某大学の薬学部の某氏からメールが入った。当方サイトの「新細川家侍帳」を御覧いただいてのことである。細川藩士K氏のご先祖の某氏に、著名なT氏が医学の伝授をしたという文書が残されているという。K家の先祖附に登場する其の人については、正統な「K氏系図」が江戸後期に焼失し、其の詳細は分からないらしい。阿蘇品保夫先生のご研究による。唯一小代某の書状にK氏の名前がみられ、おぼろげながらの時代特定が出来た。其の旨をご連絡したところだが、これは熊本の研究者が知ったらさぞ驚かれる事だと思う。総て匿名としなければならない所以である。
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三齋大いに怒る

2008-04-15 09:15:10 | 歴史
 光尚の室・彌々は三齋の愛娘萬(烏丸中納言光兼簾中)の娘である。三齋にとっては夫々孫に当たる。二人の間に男子が誕生したのは、寛永十三年十月二日忠利は光尚に宛て祝いの書状を発している。

  御彌々悦之由、目出度候而、先早打下候、爰元何事無之候、三齋様も一段御息災
  事候、十一月初比に可為御上と見へ申候、我等も一段無事候事 恐々謹言
    十月十四日                 越
                           忠利(花押)
     肥後殿
       進之候

 書状を発したその日、江戸に於いては彌々が亡くなっている。
彌々の死に対しての忠利の十月廿九日書状。

  御彌々之儀、不及是非候、吊之儀、此方之御寺未出来不申、切くミ計ニ候間、南
  禅寺天壽庵にて吊申候(以下略)
                  (「吊」は「弔」の異字)
そして、十二月十二日にはその男子も亡くなっている。この間の事情は三齋の体調を慮って報告がなされていなかったらしい。愛してやまなかった孫娘・彌々やその男子の死に直面して、三齋の怒りが爆発した。報告を怠ったとして江戸留守居が扶持離しとなる。これは三齋の指示によるものである。

 寛永十四年正月十七日付け、光尚宛て忠利書状(抜粋)

  中屋敷之町源右衛門・神戸喜右衛門并宮本ニ(次)郎大夫此三人之儀、従 三齋
  様御ふち被放候由、不届様子被仰出候通、書中得其意候事

 光尚は三人に対し再召出しを伝えたとされるが、光尚の死により約束は果たされていない。源右衛門は細川家を離れた。神戸・宮本は息の代に至っての召出しである。
行き違いとはいえ、老いて益々気短になった三齋の行動が分かる。

 
 
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将軍家光、高本慶宅ヲ召抱ヘントス

2008-04-14 19:57:21 | 歴史
 寛永十八年二月、表記の事につき忠利は三齋に宛て(宛名は中澤一楽)、家光が高本慶宅を召抱えようとした事について、喜びの書状を送っている。

 一、慶安(慶宅)事、せかれの時迄可被成御存知候、今程 上様迄御耳ニ入、可被 召出と、江戸に
   ても上意にて御座候キ、今之世之外科一人二人之内にて御座候、是へ見廻ニ被下候事幸、我等
   仕合と満足仕事候(略)

 その高本慶宅について「大日本近世史料・細川家史料」の人名一覧は、次のように紹介している。
【細川家臣。医師。慶宅の父李宗閑は、朝鮮の役に南條元宅に捕えられ、豊前に移る。慶宅は忠利に召出され高本姓を拝領、十一歳にて医師を命ぜられ、十三歳の時知行百石。廿三歳で嶋原出陣、鉄炮傷をうけ、歸陣後二百石加増、側医を命ぜらる。寛文五年三月駿河島田宿にて歿。(先祖附)】

 その慶宅を初代とする高本家では、五代目高本紫溟が藩校時習館二代目教授となった。
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