横井小楠の「士道忘却事件」というものがある。某所にて酒席を一緒にしていた横井ら三人が何者かに襲われ、小楠は刀を取りに藩邸に走り帰る。其の中の吉田平之助は果敢に立ち向かい傷をえて後絶命する。藩庁は横井に対し「国辱もの」だとして士席を剥奪している。事件が起きたのは文久二年十二月の事である。平之助嫡子巳久馬(後・傳太)の、苦難の仇討ちの旅が始まる。
慶應四年曽祖父は細川護美公に随い京都に在った。同僚益田某が、松山藩某氏より下手人安田善助・黒瀬市郎助の情報を得る。松山藩との交渉により黒瀬は鶴崎に護送される。安田はすでに亡き人であった。吉田はこの地の就奥寺において仇を討つのである。慶應四年二月三日、七年の歳月が経過していた。この年横井小楠も、新政府に参与として出仕するが、翌明治二年一月十五日参内の帰途を襲われ亡くなることとなる。
京都から帰った曽祖父は穿鑿役を勤めた。そしてその顛末を書き残している。「吉田傳太復仇一件聞取書」「吉田傳太復仇現聞録」である。宮村典太氏編著「藻塩草・巻八十二」所載のものであるが、日付けは明治三十年三月とあるから、宮村氏の要請に応じて後日改めて筆をとったものであろうか。
ひい爺様の仕事ぶりが伺えるただ一つのものである。
慶應四年曽祖父は細川護美公に随い京都に在った。同僚益田某が、松山藩某氏より下手人安田善助・黒瀬市郎助の情報を得る。松山藩との交渉により黒瀬は鶴崎に護送される。安田はすでに亡き人であった。吉田はこの地の就奥寺において仇を討つのである。慶應四年二月三日、七年の歳月が経過していた。この年横井小楠も、新政府に参与として出仕するが、翌明治二年一月十五日参内の帰途を襲われ亡くなることとなる。
京都から帰った曽祖父は穿鑿役を勤めた。そしてその顛末を書き残している。「吉田傳太復仇一件聞取書」「吉田傳太復仇現聞録」である。宮村典太氏編著「藻塩草・巻八十二」所載のものであるが、日付けは明治三十年三月とあるから、宮村氏の要請に応じて後日改めて筆をとったものであろうか。
ひい爺様の仕事ぶりが伺えるただ一つのものである。